13歳のこども・1


 今日は空がきれいだった。春とはいえ早朝はまだ寒くて、コートを羽織らずに出たのは失敗だったかな、とリョーマが首を竦めて通学路を歩いていたら、鮮やかな空色が目に飛び込んできた。蕾の先をほころばせたコブシの花の乳白色が、その眩しい青と柔らかなコントラストを作る。後ろのほうで鳥の声が響いて、なんというか、春だなあと思ったのだ。色々のすべてがもう一歩足を伸ばすような、背伸びをしなくても高いところに手が届くような、視線が自然と前を向くような。自分らしくもないとは思ったが、リョーマは妙に幸せな気分になったのだ。
 その春に浮かれた気分は朝練が始まっても続いていて、そろそろ部長が板に付いてきた桃城が「海堂がまだ来てねぇ!副部長のくせして寝坊かよ!?」とやけに嬉しそうに喚いてまわるのを宥めてあげられるくらいには、リョーマは良い気分だった。遅刻の副部長を楽しそうになじっている当の部長がいつもは遅刻スレスレであるのを部員は皆知っているから、桃城の声が響くたびクスクスと押し殺した笑いがコートに広がる。つまり、青学男子テニス部にしては、ちょっと珍しいくらい平和でのどかな練習風景が広がっていた。
 ひとしきり触れ回って気がすんだのか、朝練開始時間より5分ほど遅れて桃城が集合をかける。わらわらと部長のまわりを囲んで部員たちが集まる。いつも笑っているような部長の少し後ろにいつもの仏頂面がないのは不自然だったが、取り立てて心配するほどではない風に見えた。あと10分か20分かすれば、遅刻の気まずさを不機嫌でとりつくろった海堂が現れるのだと、誰もが思っていた。こんな特別きれいな日なら、多少の珍事があっても面白い。のどかなコートの雰囲気に流されたからだろうか、リョーマは珍しくそんな風に思っていた。体を動かしはじめれば、暖かい日差しに次第に汗が滲んできて、余計なことなど考えられなくなる。黄色いボールの描く軌跡にのみ神経を研ぎ澄ませる時間は、リョーマにとっていつだって、これ以上ない喜びだ。そして恐らくは、他の部員たちも同じことだった。
 ピリリリリリリリリと響く、ただ素っ気無いだけの電子音。コートの熱気を削ぐその音は、顧問の竜崎から発せられた。忌々しげにチッと舌打ちをしてポケットの携帯電話を取り出しながら、竜崎はフェンスの扉を押してコートを出る。一瞬止まったコートの中の時間は、彼女を残して再び動きだす。竜崎はテニス部の顧問だが、クラスの担任でもあるし学年主任でもある。こまごまと忙しいのは教師も生徒もお互い様だ。だから、こんなことは良くあること、だった。
 しかし、コートに戻ってくるなり竜崎は口元を押さえて脇のベンチに座り込んだ。それは珍しいことで、彼女の球出しの代役をしていた部員だけがチラリと竜崎を見た。けれど他は誰もそんなことを気にしたりはせず、ただ賑やかに必死に練習ノルマをこなしていて、桃城もリョーマも例外ではなかった。だから竜崎の青ざめて強張った顔も見なかったし、さっきの電話の内容に思いをめぐらすこともしなかった。
 だから、桃城が集合を掛けて朝練を終えようとした時、傍らに立った竜崎が言ったことを、一度で理解するのは難しかった。静まり返った部員たちに向かって、竜崎は苦しげに同じ言葉を繰り返した。カラカラに喉が渇いたような、ひどい声だった。
「さっき、海堂が、事故にあったそうだ。怪我の程度ははっきりしない。ただ、良くない、そうだ」

 こんなにきれいな日なのだ。何か特別なことがあっても悪くない。何かいつもと違うことが。






 ――けれど、こんなことは。



 日常が崩れるのはいつだって唐突で、激しく突き当たってくる事実に目を見張ることしかできない。無意識に握りこんだ自分の指先が恐ろしく冷たくて、リョーマは運動で上がった体温が急に引いていったのを知った。人のからだはこんなにも正直に心を反映するものなのかと、妙なところで関心してしまう。けれどそれが事実から目を背けたいだけの悪あがきなのは、リョーマ自身がよく分かっていた。一瞬の沈黙が終わり、部員たちはざわめく。すでにコートに背をむけ職員室に向かうらしい竜崎を、桃城が追いかける。しばらくうろたえた後、よくやく役割を思い出した荒井たち三年が、号令を掛けて解散する。戸惑いながらも部員たちはバラけていき、いつも通りに着替え、各々の教室にむかった。いつも通りに。その流れの一番後ろについて歩きながら、リョーマは、教室に着く頃にはもう別の話題で笑うことができる同学年の部員たちが不思議でならなかった。

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(20050329)

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 ようやく書きはじめたリョ海なれそめ話。元々が乾海なので乾さんが居るとリョ海になりません。なので薫:3年 リョーマ:2年の春からスタート。これの元ネタ話は『とんがった10のお題』の「茨」