『とんがった10のお題/茨(リョーマ×海堂)



 ぱしん、と鋭く振り払われた。オレはその勢いに、思わず体が竦んでしまった。よろめいた体を支えようと伸ばした、けれど素気無く払われた手はジンジンと傷み始める。あんまり驚いて相手の顔をまじまじと見上げた。視線の先、海堂先輩は、杖にすがってなんとか立っている状態で、けれど物凄く険しい顔でオレを睨んでいる。心底恨まれているような、深くて暗い目つきだった。今までこんな目で人に睨まれたことなど、一度もなかった。
 海堂先輩は激しい感情を内側に押さえつけるように唇を噛み締めた。そして、搾り出すように、低い声をさらに低くして言う。
「……来て貰ったことには一応礼を言う。ありがとう。皆にもそう伝えてくれ」
 直接礼を言われたのは、初めてだった。例えこんな凄まじい目で睨まれているときであっても、海堂先輩の『ありがとう』は耳に甘かった。オレは耳鳴りのようにその声を脳内でリピートしながら頷く。けれど続いた言葉は、一瞬舞い上がった気持ちをあっというまに突き落とした。
「でも、もう顔を見せるな。オレを心配するのは無意味だと、伝えておいてくれ。オレはもうテニスが出来ない。学校に行けるようになったら、退部届けを出す」
 声を荒げるでも、涙を流すでもなく。海堂先輩は、ただいつものようにイライラと面倒臭そうに、必要事項をオレに伝えた。

 秋の終わりの、日曜日。晩秋だというのに妙に暑い日で、昼からの休日練習では皆、おかしな天気だとぼやいていた。本当に珍しく海堂先輩が居なかったこともあって、あいつが無断で休んだからこんなことになったんだと、桃先輩が八つ当たりをしていたことをよく覚えている。それを皆で笑った時は、心配なことなど何もないと思っていた。
『昨日、海堂が事故に遭ったそうだ。大事を取ってしばらく学校を休むから部活にも来られないと、本人から連絡があったよ』
 翌日の朝練で、竜崎先生がそう伝えたときも、それほど大したことは思わなかった。竜崎先生も、海堂先輩本人が連絡してきたことから、大丈夫だと判断したのだろう。けれどさらに翌日、海堂先輩の母親から担任教師に入った連絡を聞いた彼女は、これ以上はないほど硬い顔をしていた。横断歩道に突っ込んできた自動車から子供を庇って、海堂先輩は自分から自動車にぶつかったそうだと言った。いつもの朝練前のざわめきがピタリとやんだ。その甲斐あって子供も本人も致命傷は避けられたが、子供は肩の骨を折り、海堂先輩は右足の膝から下にダメージを負ったという。“ダメージを負う”という医者的な表現は意味がよく分からなかったが、竜崎先生を見れば良くない状態なことくらい理解出来た。
 いかにも海堂先輩らしく、いかにも海堂先輩らしくない話だと思った。自分より弱いものに、無条件で優しい人だと知っていた。けれどテニスに関して、誰より熱心で神経質な人だとも分かっていた。子供を見殺しにしてしまう海堂先輩も、テニスが出来なくなるような危険を冒す海堂先輩も、どちらも想像出来なかった。他人ですら出来ない二択をきっと、海堂先輩は一瞬で選び取ったのだろう。とんでもなく粘り腰の試合をするくせに、大事なところで潔すぎる人。
「――――で、な。部として見舞いをしたいと思うんだ。オレが行くべきだろうけど……まあ、知っての通り、オレが行ったら海堂のヤツ、間違いなく治りが悪くなっちまうわな」
 いつの間にか竜崎先生は引っ込んで、今年一年部長を務め上げた桃先輩が前に立っていた。一年間、部長と副部長という一番近い役職についていたにも関わらず、(お互い仕事はきちんとやっているものの)現在までケンカの絶えない桃先輩と海堂先輩を知っている部員たちは、ここでようやくクスリと笑う。押し殺した空気が少しだけ緩んで、桃先輩が僅かだがほっとした表情になる。こういう所を見ると、部長なんだなと今更に実感した。
「で、誰に行ってもらうかってコトで、越前!お前行ってきてくんねぇ?」
「…………………………え。何。なんで」
 突然振り向かれ、上から視線を合わされた。てっきり三年の誰かが行くだろうと考えていたため、自分が指名されるとはチラッとも思わなかった。とっさに敬語が抜けた言葉に、後ろのほうから誰かが小突いた。桃先輩は気にしちゃいなかったのだが。
「それはやっぱ、次期部長のお仕事ってヤツじゃねえ?」

 簡単に言ってくれたものだった。ひどく嫌な役目だった。
 明日の朝、皆に何と伝えればいいのか全く分からなかった。オレは海堂先輩の家から自宅への、そう短くはない道のりを歩く。周りの風景に馴染んではいないが、ランニングの途中に何度か来たことはあった。おかげで初めての海堂先輩の自宅にも迷わず来られた訳だが、今はそれが恨めしい。学校から家までの道なら意識を飛ばして歩ける。まったく知らない道なら迷わないことだけを考えて歩ける。今あるく道はそのどちらでもなくて、頭の一部が手持ち無沙汰で、どうしようもないことばかりを考える。
 強さに貪欲な人だった。けれど人と比較したり相手を貶めたりは決してしない人だった。その人があんな目をするのを見なくなかった。周りの全てを恨むような、有刺鉄線をめぐらせたような。妬むような嫉むような……嫉妬する、ような。目の奥ばかりがどす黒くて、そのくせ普段どおりを装うような。
「なにが、ダメージだっつの」
 苦しくて、思わず独り言が漏れる。そして、この声がきっかけであるように地面が流れ始めた。向かってきていた犬連れの女性がちらりとオレ見て、足早にすれ違った。前もって、もっとハッキリ言ってくれれば良かったのだ。本当は呑気に見舞いなんて言える状態じゃないことを、言ってくれていれば、オレはあの目を見なくてすんだ、あの目をさせなくてすんだはずだった。
 地面が流れる。アスファルトの奔流は止まらない。オレは知っている。人を妬む感情は、すべて自分に撥ね返ってくる性質のものだと。そして今、オレを返して玄関の大きな扉を閉めたあと、自分の部屋に戻って、海堂先輩はあの深くて暗くて、どうしようもなく苦しい目で、自分を見ているのだろう。悔やもうにも悔やめなくて、苦しんでいるのだろう。オレに棘を向けたことで守った内側の弱いところを、自分で傷つけてしまうのだろう。
 ごおんと、近いところで夕方の鐘が鳴る。息が切れて、足がもつれて、それでも地面は流れ続ける。オレはもう辛くて苦しくて、涙を流した。きつく払われた指先も、わき腹も、胸も目も、今はただどこもかしこも痛い。







初出:2005/01/09、日記にて
ページ作成:2005/02/18



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