耳元でその声を聞いた瞬間に、駄目だと思った。夢の中で自分の願いの本当に汚い部分を何度も吐き出した人に、ぴったりと体温を重ねたまま、心臓がぎゅっと縮まるような言葉を貰うのは、あんまり刺激が強すぎた。温もりに甘えてすがり付いて、これ以上を望むのは欲張りすぎる。けれど駄目だった。思いも体温もぴったり重なってしまったのだから、もう、重ならない部分があることの方がおかしいじゃないか。一瞬頭を掠めた都合の良い考えは、あっという間に脳を侵食して体を動かした。驚きに見開かれた目を見つめ返すのが辛くて、こっそり目蓋を下ろしながら、海堂先輩の唇に唇を重ねた。唇に感じる柔らかさと温もりと湿り気に、眩暈がしそうだった。


Recklessness in their fourteen-1



「ん……」
 重ねただけの唇が離れて、海堂先輩は溜め息のような声をもらした。その声に腹の奥がずきりと疼く。そして同時に、ざあっと音が聞こえたくらい血の気が引いた。堪えきれない衝動と涙が出そうな興奮は変わらない。けれど一瞬で舞い戻ってきた理性が、自分の暴走を激しく責め立てる。これはルール違反のキスだ、と。貪った訳でも無理強いした訳でもなかったキスは、例えは海堂先輩が女性だったなら問題なかった。異性同士がこれほど接近して、そういう意図が無いと思うのはカマトト過ぎる。けれど、同性の後輩が先輩からキスを盗むのは話が違う。まして海堂先輩なら間違いなく怒る。殴る。オレは瞬間的に腹に力を入れた。アメリカ仕込みの挨拶だと言い訳するか、アンタで何度も抜いてるくらい大好きだと白状するか、どう言おうかと迷いながら体重を載せた硬い拳が自分の体にめりこむのを待つ。どちらにしても、一年かけてじっくりゆっくり距離を詰めて来年見事青学を勝利に導いて、アンタのお陰だと囁きながら告白する――ちなみにその頃には身長差も逆転している予定だった――計画がパーになったのに違いなかった。自分の堪え性のなさを罵りながら、けれど唇に残る湿った余韻は未だ心臓をドクドク鳴らす。この引き換えに殴られるなら、妥当。そう思えた。
 それなのに、海堂先輩の手は変わらずリョーマの髪を梳いていた。時折首筋を掠めていく指先が、きつい一発を予想して無意識に硬くなった体をゾクゾクと震わせる。不自然な間にうっすら目を開けて、けれどそこに予想していた怒りと羞恥で顔を赤くした海堂を見つけることはなかった。代わりに見つけたのは、オレぼんやりと見つめる目と、冷たい空気の中ほんのり紅潮した頬だった。離れたばかりの唇が少しだけ開いた、エロいというより色っぽいというより、淫らがましい表情。腹の奥がますます痛む。意味が分からなくて反応が遅れているだけだろうその表情を、何だか都合の良く解釈してしまいそうになる。湧き上がる衝動を毛の先ほど残った理性で捻り殺して、ようやく半歩後ずさる。お互いの間にわずかに出来た隙間から、溶けるように温もりが逃げていった。途端に体中に染み込んでくる12月も末の冷え切った空気。薄いジャージをすり抜けて肌を刺す冷たさに、擦れあう間接がキシリと鳴る。俯いた視界には海堂先輩の足元が映る。長いこと白い包帯に包まれていた、今はもう元通りに見える、けれど元通りではない足。ああ、こんなに寒いのでは怪我に悪い。
「おい、越前」
 早いところ殴られて御免なさいと謝り倒して甘えてみせて許してもらって、暖房のない冷え切った部室から海堂先輩を追い出そう。そもそも部室にストーブのひとつも無いのが間違っている。今年の予算で買ってしまおうか?
「……おい」
 暖かい空気が頬にあたる。そう、こんな風に暖かいのがいい――暖かくて湿った空気が頬をかすめて、もっと暖かい指が伸びてきていた。やっぱりオレより大きい手のひらに顔ごと包まれるように上向かされる。いよいよだろうか。内心、早く拳を固めて欲しいとも思う。最近どうにも被虐的なのが好みらしい海堂先輩と違って痛いのも辛いのも普通に嫌いだ。表情のない海堂先輩が見えて、オレは足元の床がパカリと開くのを待つ気分で目を閉じた。頬の上を移動する手のひら。そして唇の上に感じる、ひどく柔らかい。暖かい、あまつさえ、濡れた。


 何。




(20051106)


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 「13歳のこども」の直後の設定。