13歳のこども・9


 リョーマさん、こんな日にまで行くの?よく気をつけるのよ。という母親以上に母親的な従姉妹の言葉をいつものように聞き流しながら、リョーマは門扉を開けた。細いアルミの上に積もった粉雪がふわりと舞い散る。オレンジの門灯を反射してそれはキラキラと光って見えた。
 12月3日、1年の最後の月の最初の土曜日。師走に入ったばかりの夜は冷えて、けれど明るい。初雪が降ったからだ。粉砂糖のような細かい雪が朝から絶え間なく降り続き、ようやく夕方に止んだものの、街中がうっすらと白んだまま夜を迎えていた。道は月明かりと街灯を映して明るく、足元を無数のライトに照らされているようだ。冷えた空気は雪を氷に変えてしまって、うっかりスピードを上げればツルリと足を取られてしまう。一歩一歩上から踏み下ろすように走らなければ危なかった。普段とは違う動きが増えて、たった1キロ進むのも酷く疲れる。いつものランニングコースはまるで知らない道のようだった。リョーマはゆっくり、慎重に進んでいく。
 人気もなく時間の止まった住宅街を抜け、慌ててチェーンを履いた自動車たちがガザザザザッと大きな音を鳴らす幹線道路を抜け、クリスマス一色に染まった繁華街に出る。どのショーウィンドーも赤と緑のクリスマスカラーに金色のベルや白い羽が飾られて、スピーカーからは最新のクリスマスソングが流れていた。12月最初の週末を盛り上げる準備が整えられた町並みは、けれど、閑散としていた。冬の街を彩るカップルたちもこの雪には敵わなかったのか姿がなく、代わりに学生服やスーツ姿がぽつぽつと、早足で通り過ぎていく。皆が歩道のアスファルトが覗いた部分を選んで歩くので、まったく見知らぬ者同士が一列に行進しているようだった。用事も無いのに外出する物好きは自分くらいらしいと、リョーマは小さく笑う。それは自分自身を笑うものでもあったし、安堵の笑いでもあった。この様子なら、今日は海堂も家にいるのだろうと、リョーマは荒い呼吸に紛れてフゥと息をつく。
 10月の終わりの日、海堂に無表情に振り払われて以来、リョーマは夜のランニングコースにこの場所を入れていた。海堂の、学校での優等生ぶりとあの夜の荒んだ様子。どちらにも酷く驚かされ混乱したが、両面を見てリョーマはどこか、納得出来る気がした。少し気をつけて校内の噂に耳をそばだてれば、二学期から豹変した海堂への評価の中には、人当たりも改善されて良いカンジだ、いうのに交じって、あいつヤバイよ、と声をひそめるものもあった。よくよく聞けば、他校の高校生と一緒になってケンカ騒ぎをおこしている、という一歩間違えば停学、規律の厳しい私学としては退学もあり得る話だった。自分が見たものをそのまま裏付ける噂が、ごく小さくではあったが広まっていることに、リョーマはゾクリとした。もっとも、それらの出所は青学では珍しい遊んでいる部類、違う意味合いで教師陣の覚えめでたく教室からも浮き気味な学生たちだったので、そこから問題に発展するには大分時間が掛かりそうだった。だからこそリョーマは、ランニングコースを変える、という遠回りな方法で噂を確かめた――リョーマは実際に噂の片鱗を見ていたのだから、確かめるも何も今更ではあったのだ。けれど、海堂の投げ遣りな笑顔が9月の始業式の無表情と重なって、妙にすんなり納得出来てしまったからこそ、リョーマは根も葉もない噂だと信じたかった。
 しかし地道な検証の結果、毎週土曜日の午後10時前後に海堂が繁華街を駅に向かって歩いているのが判明した。ひとりだったり遊びなれた集団に交じっていたりまちまちだったが、どちらにしもて服は薄汚れて小さな怪我をあちこちに作って、痩せた肩はどうしようもなく荒れた雰囲気をまとっていた。2キロ弱の通りを抜けるどこかで、リョーマは必ず海堂とすれ違う。そうなる時間に合わせていた。リョーマは通りの向かいに視線を据えて、遠くの方から海堂がやってきて通り過ぎていくのをじっと見ていた。海堂は道路を挟んで隣り合うほんの一瞬だけ、リョーマを見る。それはリョーマがそこに居ることへの驚きも怒りもない、空が青いのを確かめるくらいの無感動だった。けれどリョーマは視線をまっすぐに合わせる一瞬で死にそうになる。ふ、と向けられた眼が、再び何気なく前を向いて、潔いばかりの背中を見せつけて遠くに行く。リョーマ自身も何も気にしていない風に走り続けたが、その眼を見て背中を見るだけで痛くてどうしようもなかった。胸が痛む、なんて可愛いものではない。指先に針を通されるように内臓めがけて殴られるように、全身がきつく痛んだ。今すぐ方向転換して海堂の肩を掴みたい衝動に駆られて、けれどその後言うべき言葉は分からなくて、とうとう一度も出来ていない。もう四度もそうやって、海堂の冷えた横顔を見送っていた。
 人の列をさけて、リョーマは歩道の脇に逸れる。雪が解けずに降り積もったそこは、一歩踏み込むたびにザックリと音をたててリョーマの足跡を残した。ランニングシューズの半分くらいまでが雪に埋もれて、生地はじっとり水分を溜める。転ぶ不安は減った代わりに、ますます体力が奪われるようだった。繁華街も半分を過ぎ、海堂が居ないのが確実になってきて、リョーマはさすがに疲れを感じる。ロードワーク以上の負荷にげんなりしながら、今日は止めておけば良かった、と出掛けの従姉妹の呆れ声を思い出した。まだ手付かずの深雪を踏みしめながら、リョーマは珍しく後悔しかけて、けれどやっぱり自分は出てきてしまっただろうと確信めいて笑う。海堂は平穏で安全な自宅に居るのだともうハッキリ分かっているのに、リョーマの視線は左右に落ち着かない風で何かを探してしまうのだ。本当はもう前を向いているのだって嫌なのに、とリョーマは自嘲する。ひとりで勝手に必死になって、勝手に辛くなって、きっと海堂はリョーマが居ることをこれっぽっちも気に留めてないのに、自分が馬鹿みたいだと思った。こんなに自分が分からなくなるのは、初めてだった。






 繁華街の端っこ、人や店や喧騒がまばらになってくる辺り。もうリョーマの意識は半分以上飛んでいて、雪道の走りにくさも爪先を突き刺す冷たさも甘ったれた愚痴も、全て消えていた。一定のリズムで走ることと周囲に目を走らせること、そのふたつだけを考えてひたすら足を動かしていく。もう少ししたら後者も忘れて、ただ走ることだけに没頭していただろう。そういう意味で絶妙のタイミングだった。
 目の端で飛び去っていく景色の大半を占める白のなかに、ぽつんと赤い花が咲いていた。そのように見えた。リョーマはぐっと目を凝らして、まだ遠いその小さな赤を確かめる。練習にふさわしい速度で走っていた足は一歩を大きくする。リョーマはひどく嫌な予感がして、それは正しかった。みっともなく乱れた息継ぎをしながら、リョーマは確認する。ぽつぽつ、と歩道の端に散った赤はそのまま店舗の脇道に続いていた。人の出入りの少ないはずの脇道の一部は、雪が踏み荒らされて泥まじりだ。そのまま奥に続いていく赤は、ひとりの足跡を伴っていた。少し、足をひきずるような、足跡。
 店と店の間の狭い路地の、さらに奥の行き止まり。リョーマは焦りで雪に足を取られながらその赤と足跡を追い、そして、見つけた。


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(20050718)

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 リョ海なれそめ話9話目。場面の真ん中でぶったぎりです。