13歳のこども・10


 ぼんやりとピンク色が広がっていた。白い雪の上に広がる淡い色は、それだけみれば酷く幻想的だ。
 雪が月明かりをうつして、薄汚れた路地は不似合いなほど明るかった。いつもの夜ならば暗がりが隠してくれただろうものまで、全てがはっきり見えている。リョーマは荒い息をごくりと飲み込んだ。その様子はあまりに痛々しくて、現実離れして、いっそ綺麗だとすら、リョーマは思う。痩せた男の磔刑図が美しい芸術であるなら、目の前は間違いなく美しかった。
 時間すら凍ったような、キンと研ぎ澄まされた空気の中、ふたつの息遣いだけが生き物の存在を主張する。リョーマの焦った荒い息と、そして海堂の苦しげに喘ぐ息。海堂は、夜になっても薄明るい雪雲を仰ぐように上を向き、大きく胸を上下させていた。自分の息に重なったリョーマの早い呼吸に気が付くと、海堂は壁に背を預けた姿勢はそのままにグッと身構える――喘ぐ唇を引き結び、あちこちから赤い血がにじむ体を硬くし、切れそうに鋭い目付きで睨みつける。血に塗れた抜き身の日本刀のように、独りで死ねる場所を探す傷ついた猫のように、周り全てを威嚇し、全ての干渉を拒絶する目だった。
 その目と目を合わせた瞬間、リョーマは目頭がカッと熱くなった。そしてジワリ、ジワリと視界が滲んで、涙が溢れるのが分かった。視界を侵食する涙は止めようも無く、けれど顔に力を込めてリョーマはそれが零れるのを堪えた。痛いのも辛いもの悲しいのも苦しいのも、全て海堂のものだった。勝手な共感と同情で、自分が取って代わってはいけないものだった。ぼんやりと輪郭を失う海堂の、突き刺すような険しい視線を感じながら、リョーマは精一杯両目を見開く。けれど。
「越、前?」
 海堂の敵意をむき出しにした視線はサァッと色を変えて、驚きで丸く見開かれた目はいっそ無邪気だ。立ち尽くすリョーマと目を合わせて、呆然とした声が落ちた。越前、と戸惑いがちに零れたそれは、ひどく久々の響きだった。以前のままにボソリと呟かれた自分の名前が頭の中で乱反射して、リョーマは堪えられなかった。鼻がつんと痛くなるのを感じながら、もう無理だ、と目を閉じる。上目蓋に押し出されて頬を滑り落ちた涙は、一度零れてしまえば止まらなかった。頬骨から顎の下まで熱いものが流れ落ちる。涙腺が緩んで粘膜が刺激されて、みっともなく鼻水まで出てくる。リョーマが無意識に鼻をすすり上げると、それは嗚咽しているように見えた。
 手のひらで止まらない涙を何度もぬぐいながらグスグスと鼻を鳴らず姿は、青学男子テニス部の部長でエースの越前リョーマにはとても見えない。突然目の前に現われて泣きじゃくるリョーマに、海堂は唖然とした。思わずまじまじと、路地の真ん中に立ち尽くす後輩を見つめる。出会った頃のあどけなさは残らず消えて、少年から足を踏み出しかかった若木のような姿があった。生意気だと誰もが苦笑した言動も、今なら自信に満ちて頼もしくすら見えるだろう。その成長したリョーマが、小さな子供のように泣きじゃくる様子は、言ってしまえば異様そのものだ。人通りの無い日で良かったと、海堂はちらりと考えた。青学男テニの部長が道端で泣いてた、なんて噂は広まって嬉しいものではない。
 けれど、止まらない涙に喉をつまらせる姿に海堂はなんとなく、トゲトゲといらだった心が凪いでいくのを感じた。もうデカい図体をした男が人前で泣きじゃくるのは滑稽で、いっそ不気味だったが、リョーマはチビでガキ、という海堂の先入観が目の前の光景を歪めたのが幸いだった。幼い頃の弟も一緒に思い出されて、海堂はほだされた気分になる。足元からゾクリと冷える夜、雪道の真ん中で泣いている子供に、海堂は甘かった。
「越前」
 低い声が名前を呼ぶ。さっきの思わず口にでてしまったのとは違う、相手にしっかり呼びかける声だった。リョーマはひゅっと息を呑む。
「越前。……おい」
 二度呼ばれて、リョーマはようやく海堂を見た。グズグズと鼻をすすり上げながら顔をあげる。擦りすぎた目元は腫れて、涙は手のひらで雑にぬぐわれて頬をべったり濡らしていた。真っ赤に染まったその顔はもうグチャグチャで、海堂はリョーマの顔を正面から見たとたん笑ってしまった。フ、とおかしさに耐えかねて湧き上がる笑顔。目元がたわんで少し困ったように眉が下がるその笑顔は、最近見慣れてしまった諦めの笑顔とは全く違う、海堂らしい笑い方だった。自分が笑われているのが分かっても、リョーマは久々の海堂の笑顔に胸が痛んで、よけいに涙が止まらなくなる。涙で視界を滲ませたまま、のろのろと海堂に近づいた。目の前にたどり着いてもリョーマは止まらず近づいて、海堂がけげんな顔をする。リョーマは目の端で一瞬だけ海堂の眉根のしわを見て、けれどすぐに見られなくなった。目の前の温もりに手を伸ばす。
「おい。越前?」
 海堂の低い声が、リョーマの耳の隣で響く。けれどその響きにこもった戸惑いはあっさり無視されて、海堂の肩にリョーマの顔が押し付けられた。両腕がぎゅっと回されて、リョーマと海堂は真正面から重なった。海堂を壁に押し付けるような勢いでリョーマは海堂を抱きしめる――もっとも海堂からすれば、抱きしめられるというよりは抱きつかれる、しがみつかれると言ったほうが正しい。ほんの一瞬だけ固まったあと、海堂はハアとひとつ溜め息をついて眉根をといた。泣いている子供に何を言っても仕方ないのを、海堂は三つ年下の弟に既に教わっている。
 力任せに押し付けられた頭は重いし、骨がぶつかれば痛い。けれど海堂は子供に戻ってしまった後輩を振り払おうとは思えずに、傷だらけの体から力を抜いた。ぐったりと体を投げ出し、リョーマのしたいようにさせる。リョーマは一層強く、海堂に抱きついた。海堂のコート越しにお互いの体温が混じる。
「海堂先輩。いい加減、戻ったらどうなの」
 背中に添えられた手のひらから体温が移ってくるのを、海堂がぼんやりと感じていたとき、グズリと鼻をならしてリョーマが言った。ふいの言葉は耳にも体にも近くで響いて、海堂は思わず身を硬くする。回された両腕が厚いコート食い込んで、その形をはっきりと知らせた。海堂は緊張を解くようにもう一度、長く息を吐く。リョーマが戻れという場所がどこかは、聞くまでもなかった。
「馬鹿か。戻れるかよ」
「何で?」
「もうテニスが出来ない」
 海堂は低い声で言い切った。もうずっと前から分かっていたことだったが、自分で言葉にしたのは初めてだった――海堂は何度目か分からない衝動が噴き出すのを、強く拳を握ってやり過ごす。滅茶苦茶な大声を上げて、全てを壊してしまいたい衝動。それをもう数え切れないほど堪えて、そして堪えきれずに、こうして自傷にも似た喧嘩を繰り返していた。最近覚えた自嘲の笑いが唇の端に浮かんでくる。
 けれど、海堂の肩に顔を押し当てたままのリョーマは、その嫌な笑顔を見はしなかった。
「だから何?」
 シンと静まり返ってひどく寒い、奇妙に明るい路地に、リョーマの声がぽつんと響く。
 海堂はばっ、とリョーマを見下ろした。
 ビリビリ痛む喉から無理矢理押し出した言葉を、何の意味もないように返されて、海堂は一瞬でカッとなった。とっさにリョーマの肩を強く掴む。自由に走り球を追うことが出来るリョーマが、海堂の苦しみを全く下らないように切り捨てたことが許せなかった。肉の削げた腕が緊張で張り詰めて、海堂の手の甲に骨が浮き上がる。音がしそうなほど強く、海堂はリョーマを掴んだ手に力を込めていた。
 リョーマは、けれど、海堂の手を振り払うことも、声を上げることもしなかった。しっかり海堂に抱きついたまま、一層強く海堂の肩に顔を押し付ける。コート越しにじわじわと、熱く濡れた感覚が広がっていた。リョーマの涙が厚い布地に吸い込まれているのだと、海堂は気付いた――濡れて気持ち悪いような、その暖かさにほっとするような。どちらとも付かない感覚に、海堂は困惑した。フ、と手のひらから力が抜ける。
「自分が出来ないのに他のヤツがテニスしてるの、辛い?でも丁度良いでしょ、アンタ痛いの好きみたいだから。自分傷つけたくてこんなことしてるんでしょ?なら良いじゃん」
 リョーマは詰め寄るように続ける。けれどその間も海堂の肩に涙は染み込んでいき、訴える声は嗚咽に邪魔されて切れ切れだ。海堂を一方的に決めるける言葉すら必死の懇願のようで、海堂は何を言うことも出来なかった。ただ、高く伸びていく若木のようなリョーマがこんな場所で泣きじゃくっているのが不思議で、どうしようもなく痛ましいと思った。どこか他人事のようにすら感じながら海堂は、リョーマの肩に乗せていた手を、そろり、と動かす。
「ねぇ、戻ってきてよ先輩。オレ大変なんスよ、皆弱いから」
「自分の部員、弱いとか言うな」
 海堂は低く鋭く言った。部長にそんな風に思われれば部員はとても辛いのを知っているから、リョーマの台詞は聞き捨てならなかった。自分のことではないと分かっていても胸が痛む。
「だからアンタが助けてよ。オレ楽になるしアンタ痛いし、丁度良いでしょ?」
「…………テメェな」
 ピシリと海堂にとがめられたリョーマは、それすら都合良く解釈して見せる。減らず口の唯我独尊はこんな時にも相変わらずだった。そのくせ子供のように抱きつく腕は緩まず、肩の濡れたしみは広がる一方で、海堂はいっそ呆れて笑いそうになる。信じられないほど強い、内心では畏怖すらしていた後輩が、自分の願いを通すため屁理屈をこねるただの子供だと、海堂は初めて知ったのだ。
 強く風が吹いて、まだ固まらずにいた粉雪を地面から巻き上げる。無数の氷の粒は真上の月に照らされて光り、夜中の路地はいっそう明るくなったように見えた。全身を冷えた風が吹き付けて、少し伸びた髪がうっとうしく顔に掛かるのに眉をしかめながら、海堂はゆっくりと腕を下ろしていった。それはリョーマの背中に回ってしっかりと添う。重なる体温が暖かくて気持ちがいいからだと誰にでもなく言い訳をして、海堂はリョーマと抱き合ったまま、キラキラと光る雪を眺めていた。


NEXT

(20050806)

BACK


 リョ海なれそめ話10話目。