13歳のこども・8


 軽く片足を引きずる辛そうな歩き方と、それでも潔くはりつめた後姿。にぎやかな集団に見え隠れするそれらに、リョーマは顔を見るまでも無くそれが海堂だと分かった。リョーマは追いついた勢いのまま海堂の腕をとって自分に引き寄せる。隣の男と話していた海堂は、集団のひとりが引っ張ったと思ったらしく、ごく普通に振り向いた。すこし長くなった前髪が揺れて、無表情な目がリョーマを見上げる。伏せた目蓋が上がってその視線が自分に向くのが、リョーマにはまるでスローモーションのように克明に映った。お互いの目が完全に噛み合うのを待ちきれずリョーマは声を上げる。
「海堂先輩!」
「…………越前。なんで」
 不安定に歩く海堂にリョーマの力は強すぎて、海堂はあっさりバランスを崩した。ぐらりと傾いた体はリョーマにぶつかって止まる。勢い抱きとめる形になったが、海堂にもリョーマにもそんなことを構う余裕は無かった。海堂は表情をこわばらせて固く呟く。リョーマは掴んだ海堂の手首の頼りなさと、身をつつむ夜に馴染んだ雰囲気に、自分でも可笑しいほど動揺した。重ねた服と秋の夜風の冷たさが邪魔をして、これほど近づいていてもお互いの体温は届かない。唯一直接触れ合った手首と手のひらで、リョーマはぞっとするほど冷えた肌を、海堂は苦しいくらいに熱い体温を感じた。
 なんではオレがアンタに聞きたい、ちゃんと寝ているの、どうして部活に来ない、いつ治るの、いつ前のアンタが戻ってくるの、もう無理をしないで、帰ろう。顔を見たとたん溢れた言葉にリョーマは喉が詰まって、声にならなかった。海堂は棒を飲んだように固まっている。体が重なるほど近くにいるふたりの間に一瞬ぽつんと沈黙が落ちる。
「何、なに?海堂ちゃんの後輩?」
「その制服青学でしょ。海堂ちゃん青学だったんだ?」
「後輩くん、男前だねー」
 そのほんの一瞬の隙間をつくように、わっと声が掛かった。興味本位の言葉が飛び交って、気安い笑顔たちがまじまじと、珍しい動物を観察するようにリョーマを眺めまわす。リョーマは遠慮ない声と視線に煩わしさを感じて眉をひそめたが、海堂はこんな騒ぎにも慣れたものなのか、何でもない風に頷いて彼らの好奇心に応えた。自分の手首を強く掴むリョーマの手にふと目を落としてから、けれどそれを振り払うでもなく、ゆっくりリョーマを見る。さっきの動揺はすっかり引いた、静かな無表情。
「何の用だ。こんなとこでフラフラしてんな、とっとと家帰って寝ろ」
「……それは、オレは部の仕事があって。でも、アンタ、こんなとこって、アンタこそ……何してんの」
 海堂は部活中そのままのぶっきらぼうで端的な言葉をリョーマに寄こす。平静を保ったままの海堂に、追及者であるリョーマがむしろうろたえた。明らかに良くない状況を後輩に押さえられたはずの海堂が、ちらりとも後ろめたさや気まずさを見せないのに、リョーマは自分こそがおかしいように思えてくる。海堂のプーマを見つけた瞬間から大きくなり続けた不安と混乱がいっきに膨らんで、リョーマは怒りたいような泣きたいような、ぐちゃぐちゃな気分になった。海堂に投げつけたい問いはいくらもでもあるのに、次第に声が萎んでしまう。最後のほうはもう、周りの騒音が無かったとしてもほとんど聞き取れないくらいの小さなものになっていた。
 リョーマは海堂の顔の上で視線をさ迷わせるが、正面から目を合わせらず、何度か口を開いては閉じる。その不安定な仕草に海堂は、隠し事が両親にばれそうになって泣きついてくる時の弟を思い出して、リョーマが上手く言いたいことが纏められなくなっているのを察した。同時に弱くなった手首の締め付けに、力任せでなくするりと自分の手を取り返す。あ、とリョーマは我に返ったような声を出して海堂を見た。元後輩の現部長が時々見せる、この妙に幼い反応は、いつも海堂の罪悪感を刺激する。自分よりもずっと頼りない相手を責め立てている気分になって、海堂は内心歯噛みした。もう自分の手が届かないほど強い元後輩に優しくしてやりたいと思う、自分の傲慢に嫌気がさす。
「何もしてねえよ」
 だから海堂が漏らしたのは、深い自嘲の言葉だった。口をついて出た本音の、その甘えに、海堂は思わず笑ってしまう。越前に言ってどうするつもりなんだと自問して、自己嫌悪はますます深くなった。これ以上顔を見ていたらもっとどうしようもない言葉を吐き出しそうで、海堂は混乱したリョーマをそのままに身をひるがえす。え、とリョーマの呆然とした声が響くのが、海堂の気分をもっと酷いものにさせた。
「海堂ちゃん、いいの?」
「ああ」
「そ。んでさぁ」
 低く唸るように海堂が応えると、集団は再びするりと動きはじめた。じゃあね後輩くん、と軽いノリで手を振って、その後はもう全て忘れた風に騒がしく歩く彼らと、その先の海堂を、リョーマはどう引き止めれば良いのか分からない。頭の中がぐらぐらするなかで、人陰の向こうの海堂の背中がフラリと揺れる。
「海堂先輩!!」
 リョーマはたまらず怒鳴った。ビリビリと肌にぶつかるような大声に集団はみんな何事かとふりむくが、海堂ひとりが頑なに前を向いたまま歩を止めない。隣の男に肩を掴まれて、顎で示されて、ようやく海堂は横顔でリョーマを見た。一瞬だけ重なった視線。
「……帰れよ」
 低く、短く、海堂はボソリと呟く。それきり背を向けると、再び歩き出した。海堂の背中が小さくなって、集団のざわめきが遠くなって、とうとう姿が見えなくなる。リョーマは立ち尽くしたまま呆然と見つめていた。混乱しきった頭の中に、火傷のように焼きついたのは、海堂の冷えた肌と、淀んだ目と、そして笑顔だった。リョーマは瞬きも出来ずに、海堂が居た場所に目を凝らす。ビルの明かりを映す闇色のアスファルトに、するりと自分から離れていった海堂が浮かび上がる。
(そんな投げ遣りな、どうでも良いみたいな、笑顔) 
 むっつりと押し黙っているか怒っているのが普通で、ごくたまにだけ本当に嬉しそうに小さく笑うのが、リョーマの知っている海堂だった。諦めたような笑顔を浮かべる人ではなかったのに、とリョーマは海堂の残像をにらみつける。脆い影は視線の強さにあっさり負けて、ぐにゃりと歪んで再びアスファルトを露わにした。その儚さにリョーマの不安は煽られる。
(なんで――)
 理由は考えるまでもなかった。テニスが出来ない、それだけのことが十分過ぎる理由になるのが、少なくともリョーマには理解できる。思い返せば、9月1日の放課後の奇妙に大人しかった海堂は先触れだった。変わらざるを得なかったのかもしれないと思う。けれど、あんな風に笑う海堂は痛々しくて、リョーマはどうしようもなく落ち着かない。親しかったわけでもなかったが、あの子供のような、呆れるほど好悪がはっきりしていて、眩しい位ひたむきな海堂が好きだったのに、と考えて、リョーマはピタリと思考が止まった。
(――――好き?)
 リョーマは思わず、手で口元を覆う。あまりに突飛な考えが、万が一にも声に出てしまったらたまらないと、とっさに体が動いていた。口の中が一瞬で渇いていて、喉の奥が痛いような感覚が走る。
(好きって、一体なんだ、ソレ)
 混乱の上にさらに混乱の芽が出て、リョーマはたまらず自問する。けれど答える声がある訳もなく、真夜中近い駅前通りの歩道の真ん中で、耳まで赤くして口を押さえるリョーマを、通り過ぎていく人達の目が非難と気遣いの半々で眺めていった。


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(20050626)

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 リョ海なれそめ話8話目。そろそろリョーマが頑張ります。