13歳のこども・7


 病院から戻ってきた海堂を、海堂を知る数少ない人――家族や男子テニス部の一部、その位だ――は不安に思った。けれど傍目には、以前よりずっと落ち着いて映っていた。「病院でヒマだったから」と、本人がそっけなく語ったとおり成績は格段に向上し、他人を遠ざける荒々しい雰囲気もなくなり、海堂はすんなり教室に馴染んで、むしろ入院する前よりずっと良いように見えたからだ。まだ歩くのに不安が残る海堂をクラスメイトは気遣ったし、海堂もそれを受け入れた。椅子から立ち上がる、階段を下りる、下に置かれた物を取る。日常にいくらでもある一々が今の海堂には危うく、けれど他の人間には何てことないものだったから、支えたり手伝ったり代わったりする手は幾らでも海堂に差し出された。そして海堂は伸ばされた手の一つ一つに律儀に礼を言うものだから、今まで怖がって遠巻きにしていたクラスメイトたちも自然に打ち解けて、なんとなく海堂を囲んだ輪が出来るようになっていた。
「前より付き合いやすくなった」
 というのが大方の評価で、海堂のクラスの友達を訪ねた桃城は、教室の隅のほうの人だかりの真ん中に海堂がいるのを、信じられない思いで眺めた。けれど友達が「海堂?話してみたら面白かったよ、イイ奴なんじゃん」なんて言うのを聞くうちに、これは海堂にとって良い変化なんだろうと思えてきて、だから桃城が直感的に感じていた大きな違和感、それと少しの寂しさは消えていった。それはごく普通の受けとめ方だった。
 大きく開いた教室の窓から風が吹き込んで、廊下近くまで勢い良く届いた。肌寒くすら感じられるようになった風に目を眇めた拍子、桃城の目は人だかりの隙間に海堂の横顔を見つけた。偶然見えた海堂は、窓側の席で強い風を直接あびていて、海堂とその周囲の人間の髪や服は大きく乱れていた。十月半ばの冷たく変わり始めた風に吹き付けられて皆が体を縮こまらせたが、一番強く当たっているはずの海堂は吹かれるに任せて、ただ髪が入るのを嫌ってか目を伏せた。
 サイズの余った長袖の裾がハタハタ揺れて、襟刳りも空気をはらんで、どうみても寒そうなのに海堂は身じろぎもしなかった。桃城は自然と口元を緩める。久々にライバルの彼らしい強がりを見つけて、懐かしくて嬉しくなったのだ。でも相変わらずスカしたヤロウだオレは好きにゃなれねーな、と友達に向かってはき捨てると、桃城は笑顔のまま友達のノートを持って教室を出ていた。何となく浮かれた気分で廊下を数歩行けば、心を占めるのはもう次の時間の小テストのことだ。後輩の教室に押しかけるほど不安に感じていた海堂の違和感は、前と同じ海堂の片鱗を見かけたことでもう、大丈夫そうだという漠然とした安心感に摩り替わって、どこかに消えていった。
「アイツは心配ねーって、治ったらまた出てくるだろ」
 今はちょっと、ほっといてやれよ。引退式のあと、海堂が一度も部活に顔を出さないのを心配した後輩たちに、だから桃城は言った。反目しあいながらも一番長く一緒に居た人があっけらかんと言い切る笑顔は、変に周りを納得させるところがあって、それきり海堂について何を言う部員も居なかった。動き始めたばかりの新体制は不安定で、皆が皆、自分のノルマをこなすことが精一杯だ。引退した3年のひとりが顔を見せないのを気にしている余裕は無かったし、それは部長になったばかりのリョーマも同じことだった。以前のこともあり、桃城の笑顔をそのまま信じたのでは無かったが、何となく大丈夫なんだろう、という楽天的な考えは気付かないうちに桃城から移っていて、海堂の不在は毎日の忙しさに紛れていった。
 十月も終わりに近づけば、部の事務的な引継ぎは全て終わって、リョーマは慣れない事務に降り回されっぱなしだった。その日もリョーマは十分にハードな練習をこなした後、顧問の竜崎にA4の分厚いファイル5冊をドサドサと手渡され、年間の練習スケジュールや他校との交流戦の計画を立てておくように、と言い渡された。午後八時をまわってようやく部室に鍵をかけたリョーマは、部長なんて最初から柄じゃないのに、とらしくもないグチが零れ落ちるほどゲッソリ疲れきっていた。リョーマは人目を気にする余裕もなく、家に帰れる安堵にすっかり暗い藍色の空に手を高く上げて、うん、と伸びをする。けれど、背骨が伸びてパキッと鳴る音を聞いた拍子に、自分用のハンコを用意するよう言われていたのを思い出してしまった。
「あー……」
 リョーマは思わず、うめくような声を出す。すれ違った散歩中らしい中年の女性がぎょっとした顔で振り返ったが、リョーマは彼女に一切気付かず足を止めた。空に浮かんだ月を見つめて顔をしかめる。九月末に部長を引き継いだ最初から、部として学校に提出する書類も少なくないから、部長ならハンコくらい常備しておけ、と、リョーマは竜崎から申し渡されていた。けれどリョーマは全てサインで通していたので、つい三日前、痺れを切らした竜崎が「十一月からサインの書類は受け取らない」と宣言したばかりだった。
「まずい、な」
 顧問が脅しではなく本気で言っていることは、さすがのリョーマも肌で感じていた。大げさに注意するのではなく、何かのついでのようにアッサリと言われた声の冷たさに、これはヤバイなと思ったのだ。それでも、どちらかといえばサインの文化に馴染んだリョーマとしては、どうしてもハンコが必要だという実感が湧かず今日までズルズルと先延ばしにしてしまっていた。リョーマはウウ、ともう一度唸る。ハンコのある文房具屋は駅前で、それは通学路とは全くの反対方向だった。
「めんどくさ……」
 けれど行かない訳にはいかないだろう。らしくもなく眉間にシワを寄せながら、リョーマは嫌々ながらも腹を決め、方向転換した。そして足早に駅までの道を行く。リョーマはとにかく早く用をすませて帰りたかった。けれど運の悪いときは悪いもので、文房具屋の背の高い三文判のケースを一周くるりと回してみても、『越前』の名前は見つけられなかった。リョーマはもう一度ぐるっと回して確かめると、奥の暇そうな店員に向かって凄まじい勢いで進んでいった。

「あーりがとうございましたー」
 早く帰れと言わんばかりの蛍の光が流れる店内からリョーマが出てきたのは、もう十時になろうという時間だった。結局、青春台の文房具屋でハンコは買えず、苛立ちのまま店員につめよるようにして『越前』のハンコが置いている店を探してもらっていた。結局、私鉄で5駅ほど離れた大きめの文房具屋なら揃っているだろう、という不安げな答えが返り、リョーマはそのまま電車に乗ってやってきた。店員に渡された赤いクリップの紙袋は小さくて、手のひらに丸々納まってしまう。こんなもののためにオレは何時間費やしたんだ、とリョーマは腹立ちも通り越して悲しくなった。
 はあ、と大きな溜め息を吐き出すのと同時に、胃の辺りが引き絞られるように傷み、キュウと情けない音が鳴る。
「あーもー……今月余裕ないのに」
 リョーマはもう一度溜め息をついて、文房具屋と同じビルの一階にあるファーストフード店に向かって階段を下りた。もう人気の少ないビルの通路とは変わって、店の内はそれなりに混んでいる。ほとんどは遊び帰りや塾帰りの学生らしく、大きな窓に向かったカウンター席に座るとリョーマのテニスバックは妙に浮いていた。周りが皆ノートや手帳を取り出してそれぞれ忙しくするなか、リョーマは黙々とハンバーガーとポテトとドリンクを片付けていく。窓ガラス越しの繁華街も、駅から帰る人と駅に向かう人がそれぞれ足早に歩いて、リョーマが思っていたよりずっと賑やかだった。同じ年頃かそれより下に見える学生も少なくなくて、リョーマは自分が本当にテニス漬けなのを今更に実感する。朝練をして部活をして家に帰って寝る。そんな毎日の繰り返しは傍から見れば単調で、確かに少しおかしいかもしれないと、華やかに歩道を歩いていくセーラー服の一群の、夜目にまぶしい太腿たちを眺めながら思った。特に部長になってからは練習以外の用事も増えて、ここ一ヶ月ほどテニスのことしか考えていないような気すらして、リョーマは食べ終わったハンバーガーの包み紙をクシャリと潰した。
 いかにも遊んでいます、といったヒマそうな学生が羨ましいわけでは無いのだ。けれど、と考えてリョーマはストローをかじる。リョーマの中で上手く形にならない苛立ちが日を増すごとに高まっているのは間違いなかった。それが何なのか自分ですら分からなくて、リョーマは大きく溜め息をついて顔を伏せた。様々な足元だけがリョーマの目の前を通り過ぎていく。ルーズソックスの革靴、裾をひきずるサンダル、季節に合わない寒そうなミュール、そしてスニーカーの群れ。大騒ぎしながらのったり歩いていくのは私服の集団で、コンバースやらナイキやらの小奇麗なスニーカーが並んでいく。特に関心もなく眺める中、リョーマはひとつだけ使い込んだプーマが混じっているの見つけた。何となく気安く感じて、ばんやりとその足取りを追う。
「え?」
 突然、リョーマは立ち上がった。トレーがひっかかってガタンと大きな音が鳴る。ひとつ座席を空けて隣に座っていた女子学生が迷惑そうにリョーマを見上げて、そのあと友達の肩を叩いて楽しそうにヒソヒソと話しはじめたが、リョーマは食い入るように窓の外を通る高校生らしい一群を見つめた。けれどそれも一瞬で、乱暴にバックを掴むとトレーもそのままに店を飛び出した。
 リョーマに声を掛けようかと相談していた隣の女子学生は、なにあれ、と目を丸くする。他の客も店員もマナー違反に眉をしかめた。けれどリョーマにそれを気付く余裕はなかった。まさか、を頭の中で繰り返しながら、たったいま目の前を過ぎていった一群を追って走る。
 大声で笑いながらのんびり歩く彼らには直ぐ追いついた。けれど、集団に見え隠れする後姿を確認して、リョーマは言葉に出来ないような、やりきれないような、どうにも苦しい思いに唇をぐっと引き結んだ。

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(20050619)

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 リョ海なれそめ話7話目。ようやく「承」に入りました。