13歳のこども・4


 ふ、と静かになった。海堂は伏せていた目を開き、ひとりきりの教室で時計を見上げる。午後1時20分、用務員室で管理されているクーラーが一斉に止まる時間だった。職員室と図書室と保健室、それと使用届けの出ている教室をのぞいた学校中の冷房が切られる。付いている間は気づかないごく微かな動作音が消え、放課後の教室棟はいっそうの静けさに満ちた。歓声と号令の響くグラウンドや体育館とは全く別の世界のようだと、海堂は思う――時折だれかが廊下を通り過ぎていく足音さえも、ひどく鮮明に聞こえる。海堂は再び目を伏せて、それぞれの足音に聞き耳をたてた。ペタペタと気だるい音を立てて足を引きずる、ダダダと凄まじい音で駆け抜ける、上履きを神経質にキュッと鳴らして歩く。それぞれに性格を表しているような足音のひとつに、ほとんど聞き取れないくらいの小さな音が混じる。軽くタ・タ・タ・タと、規則正しいリズムを刻むその音は、のんびりした調子とは不似合いの速さで近づいてくる。
(一歩が大きいな)
 小さな足音は、地を踏みしめるのではなく足の裏で押し返すように走っているからなのだろう。海堂は足音の主の持つしなやかな筋肉を思って、小さく息をついた。どうしようもない羨望と嫉妬を一緒に吐き出して、海堂は奥歯を噛み締める。そして勢い良く教室の扉が開いた。静かな校舎に響くガラリと大きな音、止まった足音。海堂はゆっくり目を開けた。
「スイ、ません。終礼長引いた……」
 リョーマは額に汗を滲ませて謝った。けれど息ひとつ乱した様子はない。海堂はリョーマを見遣り、返事はしないまま、机についた両手で体を支えながら立ち上がる。そしてゆっくりとした動作で荷物をまとめ鞄をつかむのを、すばやく隣に寄っていたリョーマがするりと奪い取った。海堂はいぶかしげに眉を寄せるが、リョーマは唇の端を上げてみせる。
「待たせたから。これでチャラっスよね」
「相変わらず都合の良いヤロウだな、オイ」
「どうも」
 クソ生意気、といつも言われていた(あるいは怒られていた)笑顔を見せる。海堂はチッと忌々しげに舌打ちをして、顔を背けるなり罵るなりする、のだとリョーマは思っていた。自覚はしていなかったが、変わらない反応を確かめて、いつもの海堂と同じなのだと安心したかった。けれど海堂はそうはしなかった。ほとんど同じ高さにある後輩の顔を眺めるように見、そのまま脇を抜けて教室を出る。真っ直ぐに合わせた海堂の目は苛立ちにキラと鋭くなったがそれは本当に一瞬で、すぐに静かな暗い色をとり戻して伏せられた。ゆっくりとした動作の割にスルリとかわされて、リョーマは目を瞬かせる。しんとした廊下に向かって少し体を上下させて――上手く動かない足を上半身で引き上げている――歩く後姿。肩や腰から肉が落ちて、縦にばかりひょろりと長く見える。サイズの余ったシャツが動きにあわせて大きくはためくのに、リョーマは妙な違和感を感じた。海堂はことさらゆっくり歩いているが、それでも危なっかしいように、リョーマは思う。教室の引き戸にたどりつき枠に手を掛けた海堂は大きく息をつき、額には汗が滲んでいた。自分ならば、あるいは以前の海堂ならば何も意識することのない僅かな距離。それに海堂はひどく真剣に臨んでいた。厳しい横顔を、吸い寄せられるようにリョーマは見る。だから、海堂が教室内を振り返り、顎でしゃくるようにして促したとき、リョーマは慌てて駆け寄った。
 大きく開け放された窓から風の吹き込む廊下を、リョーマは海堂の後について歩く。海堂がバランスを崩して体を傾がせるたび、リョーマは両肩の荷物に添えた手を伸ばしかけそうになり、その度に引っ込めた。先を行く海堂が気付くことはなかったが、伸ばしては引っ込める仕草を繰り替える自分が気まずい。リョーマは両手に力を入れて、荷物の持ち手をぎゅっと握りなおした。そして、あ、と左右の感触の違いに気づく。それは海堂のはためくシャツに感じた違和感の理由と同じもので、ただ、絶対的に見慣れていないから、だった。
(テニスバックを持ってない海堂センパイが、初めてなんだ)
 部活のある日は当然のこと、部活のない日でも海堂はラケットを持っていた。毎日自主練をしていたからなのか荷物を入れ替えるのが面倒だったからなのかは知らないが、制服姿の海堂の背中の半分は常に大きなラケットバックで覆われていて、背後を盾で守られているようだった。それが消えたことに気が付いて、リョーマには一層、海堂の頼りなさが目立ってみえた。廊下を折れた途端、高いところまである階段の窓からいきおいよく風が入ってくる。真正面から風を受けて、海堂の足はいったん止まる。そして眩しそうに窓の外を見遣った。風になびく髪が、鋭さを増した頬と顎のラインをはっきり示す。骨の浮き出た腕がゆっくりと階段の手すりをたどっていくのに、リョーマはぞくりとした。思わず体に力が入って、海堂の学生鞄の持ち手を握りこむ。キシッと真新しい音が鳴った。
(この人がテニスを無くしたら、どうなるんだろう)
 危うい海堂の足取りに、リョーマは不安と、そして強い保護欲を感じた。


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(20050501)(20050503加筆修正)

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 リョ海なれそめ話4話目。そろそろ始まりました。