13歳のこども・3


「……悪い」
 ふう、と大きな息が吐き出されたあと、低い声が落ちた。触れ合った場所から内側に響いてくるのに、リョーマは言葉の意図がつかめなくて、海堂に胸を押されてふたりの体が離れてから、それが礼の代わりだったのに気が付いた。海堂が肩に視線をやるのに促されて、リョーマは支えの手を放したが、ボコリと浮き出た骨の感触は手のひらにべったり残っている。いっそ気味悪くすら思えて、リョーマは内心ぞっとする。けれど、その竦んだ感情は一切見せずにリョーマは笑顔を作った――はっきりと何か思ったのではなかったが、自分の怯えを海堂に気が付いてほしくなかった。自分の怯えが伝われば、海堂が傷つくように思ったのだ。
「べつに。ひさしぶりッス」
「ああ」
 だからリョーマはいつも以上にそっけなく、海堂はいつものようにつっけんどんに返した。向かい合えば、まっすぐに視線が交わる。リョーマはいつも見上げていた顔が、海堂は見下ろしていた顔が真正面にある違和感に一瞬、動きを止めた。けれどお互い申し合わせたように、その変化を口に出したりはしない。
「何の用だ」
「桃センパイのパシリで、海堂センパイのご意向伺い。部活に顔出してくれんのかなって」
「そのつもりだ」
「そッスか」
 短い用件を交わし終わると、言葉は途切れてシンと沈黙がおちた。休み明けの始業前はいつも以上に騒がしくて、海堂のいる教室内もリョーマのいる廊下も、向かい合ってもお互いの言葉が聞こえないくらいの喧騒に満ちている。黙って向かい合うふたりの様子は周りから浮いたものだったが、それに目を留めるものも居なかった。透明で硬い膜がふたりを包んで周りの世界から遠ざけているような感覚に、リョーマは唾を飲む。暑さのせいではない汗が手のひらにじっとりと浮かんできて、自分が緊張しているのに気が付いた。
 けれど海堂は、リョーマをいつもの無関心な目で眺めると、これ以上の用件はなさそうだと判断してスッと視線を落とした。背を向けるまえの、短い形式的な言葉を発するため、俯いたくちびるが動きかける。
「じゃあ、終礼終わったらまた来るっス」
 じゃあな、と海堂が言いかけるのを打ち消すように、リョーマは言葉を重ねた。
「あぁ?」
「いいでしょ、荷物持ちするっスよ?待っててよ」
 どこか必死さを覗かせて、畳み掛けるようにリョーマはおどけて言う。何をこんなに焦っているのだろうかとリョーマ自身、心の反対側で不思議に思う。それでも思い切り眉間に皺を寄せてた海堂を懐柔すべく、身を屈めて笑った。上目使いの甘えた仕草はリョーマの趣味とは程遠い。ただ弟の面倒をみるのに慣れた海堂は、甘えられるのに弱かった。頼りきったお願いを邪険に払うことが出来ない海堂をリョーマは知っていて、その弱みにつけこめるなら、自分の趣味を曲げるくらいは簡単だった。
「良いっスよね?」
 駄目押しにすこし首を傾けて、リョーマは俯いた海堂を覗き込む。幼さを強調するその仕草は、大分育った今のリョーマにはもう不似合いで、滑稽にも見えた。けれど“おチビ”よばわりされていた頃のリョーマを鮮明に覚えている海堂には、その違和感が変にくすぐったい。どうしても、絆されざるを得なかった――リョーマの提案の後ろに、未だ思うとおりに動いてくれない自分の足への気遣いがあるのは分かっていた。遠まわしに示される優しさに助けられることは、事故からこちらの毎日、海堂にとって生活の一部になっていた。その度に、思う通りにならない自分への苛立ちが、熾火のようにくすぶる。それは今の提案でも同じはずだったが、しかし、リョーマの幼い仕草に流されて、海堂は自然に笑みを浮かべていた。
「仕方ねぇな。用はそれだけか」
「………………ぁ、うん、ハイ。失礼しました」
「ああ」
 一瞬ふっと緩んだ海堂の目元は、凄みを利かせた目付きよりもずっとリョーマにとって凶悪だった。感情の波を隠さない、子供じみたいつもの様子とは全く違う、柔らかく許容するような海堂の表情は思ってもみなかったもので、リョーマはとっさに言葉が出なくなる。まばたきして確かめた次の瞬間にはもう普段どおりの無表情で、リョーマは幻でも見たのだろうかと、狐につままれた気分でペコリと頭を下げた。そのまま去りかけるリョーマに、海堂はなおざりに言葉を返す。そして背中が二・三歩遠ざかったところで、もう一言だけ付け加えた。
「……なぁ。デカくなったな」
 本当に何気ない一言。けれどその言葉に、リョーマは弾かれたように振り返った。引き戸の枠に寄りかかるように立つ海堂の無表情は変わらず、唇を引き結んでまっすぐ見つめてくる。けれどリョーマにはどこか、さっきの笑みの名残が見えるように思えた。海堂が自分のことに気を止めて、それを言葉にして伝えてくれたことに、リョーマは嬉しくなる。
 そして同時に、理不尽な事故で細く頼りなく変わった海堂が、それでも後輩の成長に声を掛けてくれることに、リョーマは胸が痛くなった。嬉しくて笑いそうになるのと、苦しくて顔を歪めそうになるのが、両方一度に襲ってくる。どんな顔を作ればいいのか分からなくなる。
「うん」
 リョーマは唇を噛んで、とにかく返事をしぼりだすと、不自然でないギリギリの速さで海堂に背を向けた。走るような勢いで廊下を歩く。鼻の奥に刺すような痛みが走る。ぐちゃぐちゃに乱れた感情の塊はリョーマの涙腺を刺激して、顔の筋肉を緩めたら目のふちから転がり落ちそうな程の涙がたまっていた。
(誰も、あの人にひどいことをしなければ良いのに)
 二段抜かしで階段を駆け下りていく二年を、遅刻一歩手前での教室入りを目論む三年たちが横目で眺める。キンコンカンコンとのどかな音色で鳴る予鈴。そこかしこから響く楽しげな歓声。リョーマは、それらの全てが勘に触って仕方なかった――ただ願うことしか出来ない自分が、どうしようもなく腹立たしかった。

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(20050423)

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 リョ海なれそめ話3話目。プロローグ終了。