13歳のこども・12


「オレは海堂さんみたいになりたい」
 無邪気な後輩の言葉が、海堂の心を乱した。
 今の海堂は海堂が望んだものではないのに、それを慕うものが居るのが不思議だった。不定形の鉛を胸にドンと落とされたような、苛立ちと、怒りと、悔しさと、少しの嬉しさ。定まらない感情に海堂はなんと言うべきか分からず、後輩を見返した。はにかんだような、まだあどけない表情。どこか弟と重なって見える真面目な後輩が、海堂にはいっそ哀れに思えて、無言のまま彼を見送った。テニスバックに持たれているような背中が勢いよく部室を飛び出していく。すっかり暗い夜の校庭に駆け出した、これから、に満ちた小さな後姿が一瞬キラリと光った、ように見えた。ガタと大きな音を鳴らして扉が閉まり、幼い背中は海堂の視界から消える。海堂はノートに向き直り、けれど、今までのように集中することは出来なかった。もしあの後輩が自分だったら、自分に憧れるような馬鹿な真似はしない。そんな意味のない仮定がぐるぐると頭の中に渦を巻く。それは、自分にはもう無い可能性を当たり前に持っている後輩たちへの、強烈な嫉妬だった。
 海堂のシャープペンがノートを滑り、練習メニューを箇条書きしていく。足りないものを書き出せばページはあっという間に埋まっていくが、その内のどれだけが出来るだろうか。後輩たちがこなせる内容にするため、技術的に難しいものを易しい形に変え、時間的に難しいものを減らし、それで勝てるだろうか。海堂は手を止めてノートに目を通す。ほんの一瞬じっとA4のノートを見つめると、次の瞬間シャッという鋭い音が鳴り、次々と打ち消し線が引かれていく。一本もう一本と黒い線が増えていくほど、胸に落ちた鉛がじわじわと成長していくようで、海堂は喉元が締め付けられるのを感じた。徐々にせり上がってくる圧迫感をなだめようと、唇が開きかける。けれど海堂が苦しさを吐き出すよりも早く、狭い部室の空気が揺れた。こっそり溶け込ませるような、小さな息。けれど神経を尖らせていた海堂はそれに気付いてしまって、とっさに顔を上げた。そして真っ直ぐに視線がぶつかる。
 お互いに、お互いが滲ませた苦しさに目を見張った。思いがけずふたりは強く視線を絡ませる。気遣うような腹の底をさぐるような際どい瞬間の後、リョーマは目を側め、口の端を少し持ち上げて海堂に視線を戻した。けれど後輩が気まずさを取り繕う間も海堂は一度も視線をずらさない。内心の苛立ちを正直に映した険しい目が、リョーマを正面から見据えていた。
 抜き身の感情を晒す海堂に、リョーマは一瞬たじろぎ、そして取り繕うのではない笑顔になった。自分を誤魔化したり偽ったりしない海堂が戻ってきたことをこうして実感するとき、リョーマは海堂が好きだと呆れるぐらい強く思う。その感情は必ず苦しさを連れてくるのに、何故だか笑みが浮かんでくるのだ。
「帰らないんッスか?」
「悪いかよ」
「べーつに?」
 不機嫌のまま唸るように返す海堂に、リョーマは笑ってヒラリと手を振る。意識したさりげなさでロッカーと向かい合い、海堂に背を向けた――いつもの自分通りに、出来るだけ軽く、生意気に見えるように全身の筋肉を動かす。海堂と親しく振舞う一年生を羨んだことも隠すところのない視線に見惚れたことも、海堂にはカケラも気付かれたくなかった。海堂に見せるには、自分はあまりに幼くて浅ましい。リョーマは海堂への好意を明確に抱くほど、自分の未熟を痛切に感じていた。
 ドサドサッと、静かな室内に重いものが落ちる音が響く。海堂は背後から聞こえた音に自然に振り向き、そして驚いた。分厚いファイルが何冊も、リョーマのバックに仕舞い込まれていく。入れるというより落とすというのが正しいようなリョーマの荒い仕草に海堂は眉をしかめるがそれ以上に、見るからに重い荷物をそうと意識させないリョーマの力に海堂はあっけに取られた。リョーマは海堂が見ていることには気付かず、ただ機械的に荷物を詰め込んでいく。屈みこむたびユニフォームの下から浮かび上がる背中のラインはきっちりと備えた筋肉を示し、海堂の肩にも届かなかった生意気な後輩の影はもう見えなかった。海堂はちょうど三週間前の雪の日、その背中に触れたはずの自分の手を見る。泣き喚く子供をあやすため確かに回した腕はけれど、子供の体温の心地良さしか記憶していなかった。海堂は自分の手をきゅっと握りこむ。
「……越前」
「何スか?」
 ファイルを仕舞い終えたリョーマは、海堂を振り向くことなく着替え始める。もう汗も乾いてしまったユニフォームを剥ぎ取るように脱ぎ去ると、背中だけでなく首も肩も腕も、全てが二回りはたくましく変わったのがはっきり分かった。一年の時から海堂の歯が立たないくらい強かった越前だったが、今はもっとずっと強くなったのだろうと簡単に想像出来る。もしかしたら手塚部長よりも強いかもしれないと、海堂は背筋がゾクリとする。けれど今のリョーマの実際の強さを、海堂は部活に戻って三週間たってもまだ見たことが無かった。
「そのファイル、何だ」
「他の学校の、過去の資料とか。バアさんに借りた」
「何で」
「だって、相手の出方が分からなきゃ、やりようないでしょ?」
 リョーマは可笑しそうに、何でこんな当たり前のことを聞かれるのか分からないような口ぶりで答えた。リョーマの様子に辛さや悲壮感はなく、それが海堂の眉をしかめさせた。部活の中で部長の役割は大きく、毎日のすべてを費やしても足らないくらい忙しい。海堂もそれは当たり前で仕方ないことだと思う。けれど部長だけに全てを任せるのは違う。必要な事務や雑事は均等に振り分けるべきだ。それなのに、この場にリョーマ以外の部員の姿はなかった。
「そんなん、他の奴に任せろ」
「なんでッスか?」
「お前の練習する時間がなくなる」
 海堂がイライラと言い切ったのに、リョーマは学ランの襟を止めながら振り向く。そして海堂は何を怒っているのかと、面白そうに見つめた。リョーマのその、他人事のような気軽さが海堂に油を注ぐ。どんどん険しくなる海堂の表情に、けれどリョーマは恐れるでもなくじっと見る。
「この三週間、お前部活で自分の練習してないだろ。ほかの奴に合わせてやるばっかで、全然本気じゃない」
「海堂先輩、意外にオレのこと見てくれてるんッスね」
「越前!」
 ちょっと嬉しいかも、とリョーマは呑気にのたまう。海堂は低く名前を呼んだ。その響きの鋭さにリョーマは首をすくめるが、どこかふざけているような仕草だった。眉間にしわを寄せた海堂が、ダンッと床を蹴りつけた。作りの脆い部室が震える。そして今度こそ怒鳴ろうと海堂が口を開きかけた時、リョーマは笑った。
「オレ『青学の柱』ッスよ。オレは絶対に勝つから、ほかの奴らが負けないようにしてやらないと」
 簡単に言い切ったリョーマに、かけらの気負いもなかった。軽口の続きのような言葉だったが、紛れも無いリョーマの本心だと海堂は分かった。強烈な自負と、責任感。前にリョーマが言った通り、今の部員たちに目立って力のあるものは居なかった。個性豊かな三年生が揃い、二年生は桃城と海堂が競い、一年生にはリョーマが居た、あの瞬間が特別だったのだと、海堂にすらそんな諦めが何度か頭をよぎっていた。けれどリョーマはひとりきりで、勝つために動いていたのだ。海堂が自分が思うとおりにならないのを持て余し、自棄になっていた時も。
 海堂はリョーマを見る。昔は生意気にしか見えなかった後輩の笑顔は、もう全く別のものだった。海堂はそれに初めて気付き、そして知る。もう一度強くこぶしを作る。海堂の手のひらは、リョーマのしなやかな筋肉を知っているはずだった。けれど知らなかったのは、海堂は知ろうとしなかったから――自分が欲しいもの以外は何も見ようとしなかったからだった。思うまま体を動かす後輩たちに嫉妬し、自分の不幸に酔う。
「みっともねぇ」
「え?」
「オレのことだ」
 突然の言葉に、リョーマの笑顔が引く。それに入れ替わるように、海堂が笑った。不機嫌から一転した、強く目を輝かせた全開の笑顔。数えるほども見たことがないそれに、リョーマは動揺を隠せない。海堂が不安定に立ち上がるのに手を貸すことも出来ないくらいリョーマはその笑顔に縛られた。後輩たちに向けるのよりもずっと上等な、意志に満ちた笑みだった。海堂が怒り以外でこれほど明確に感情を示すのを、リョーマは初めて知った。説明の付かない興奮で耳まで熱くなる。
 リョーマが立ち尽くす間に海堂はゆっくりリョーマに近づく。軽く足を引きずる歩き方はきっと、見苦しいか痛々しいか、そんな風に見えるものだろう。けれどリョーマにはひどく潔い姿に見えた。ガシャ、と耳に付く音が響いて、リョーマは背中がロッカーに当たったのに気付く。そして自分が無意識に後退っていたことを知った。思わず気圧されたリョーマに、海堂が寄る。
 冷えた空気に乗って、お互いの熱がわずかに伝わる至近距離。海堂は立ち止まり、ほとんど同じ高さの視線をしっかりと捕まえた。逸らすことを許さない強い視線と、そのくせ最後の距離が埋まらない体温を、リョーマはもどかしく感じた。


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(20050914)

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 リョ海なれそめ話12話目。次で終わりです。