13歳のこども・11


 海堂は部室の机で頬杖をついたまま、ペラリと成績表をひろげた。一段目は6・7・8・9と適度に散っていて、二段目は9と10で埋め尽くされている。二学期の成績次第でクリスマスプレゼントのランクが決まる、と大騒ぎしていた桃城が見たら、9で良いからひとつかふたつ分けてくれと言いそうな成績だった。けれど海堂はまったく興味のない風でざっと目を通すと、テニスバックに戻すでもなく机の遠くのほうへ放ってしまう。これを持って帰った時の、家族の反応を見るのが海堂には憂鬱だった。『心配していた遅れは一切無く、とても頑張ってくれました。クラスメイトとも一層仲が深まったようです』などと呑気なコメントをよこす担任教師ほど、海堂の家族は何も見ていない訳ではないのだ。向上した成績の理由は考えなくても分かってしまうだろう――そして、また要らない心配をしてしまうだろう。海堂はそれが嫌だった。思わず顔が険しくなる。
 ガツ、と派手な音を立てて乱暴に部室のドアが開く。不機嫌なままの海堂の視線もそちらに流れた。
「あ…………と」
「オツカレ」
「あ、お疲れ様です!」
 タイミングの悪くもコートの片付けを終えた一年生たちが部室に戻ったところだった。眉間にシワを寄せた最上級生をみて、カチリと固まってしまう。正しく蛇に睨ませた蛙だった。部室のドアを開けたまま、後輩たちはどうしたらいいのか分からない。海堂は声を掛けて彼らの硬直をといてやった。慌てて頭を下げるのに、軽く頷く。少しばかりうっとうしかったが、海堂は後輩に付き合うのが嫌いではなかった。彼らが変わっていく様子はどこか眩しい。自分もこんな風に見えていたのだろうかと、最近、卒業してしまった先輩を思い出すことが多くなっていた。
 沈んだ気分に水を指されて、海堂はノートを取り出す。冬休み中のメニューが、まだ完全に出来上がってはいなかった。これから伸びそうな一年たち数人の顔を思い浮かべながら、コツリとシャーペンで机を叩く。昔自分が乾にねだったような、効果的だが単調なメニューは彼らには辛い。別なメニューを用意しなくては、と考えていた時。
「あの、海堂さん」
 おずおずとした声が背中から届く。頬に丸みを残した一年生が所在無げに立っていた。その手にテーピングが握られているのを、海堂は素早く確認した。そして今日の練習を思い出し、ああと頷く。
「……ここ座れ。右手首?」
「あ、はい、そです。えーと、失礼します」
 海堂は表情を変えないまま、後輩に隣に座るようあごをしゃくる。慌てて寄ってきた一年生は、けれど、遠慮がちだが怯えてはいない。海堂に手を取られ、ポイントを的確に教える短い言葉と一緒にテーピングが巻かれていくのをじっと見る表情は、照れと緊張で赤く染まっていた。一年生は海堂の言葉のひとつひとつに真剣な顔でうなずき、海堂も口調こそそっけないが丁寧に教えていく。その様子はまるで仲の良い兄弟のようにも見えた。
 ちょうど三週間前に路地でリョーマに捕まって、その次の週の月曜日に半ば引きずられるようにして海堂は部に戻った。現在トップの二年生たちは嬉しいのが六、怖いのが四、といった目で海堂を迎え、一年生は全く知らない先輩の登場にポカンとしていた。ただ部長である越前だけが、どうしても堪えきれないように笑みを浮かべて海堂を見ていて、むしろ一年生たちは越前のその様子に目を丸くしていた。
「終わりだ。ラケット持って、ゆっくり素振りして、違和感が無いか確かめろ」
「はい。ありがとうございます」
「オレも先輩にならったから、別にいい。それより気をつけろ。ボールの動きが追えてないから手元で慌てて対処する羽目になってる。だから変に力が掛かって痛む。癖にすんなよ」
 海堂は言うべきことを言い切ると、後輩の肩を軽く叩いて立たせる。そのまま机に向かいなおそうとするのに、一年生はもう一度頭を下げて同期の群れに戻っていった。海堂に教わった一年生をほかの一年生たちがゆるやかに囲んで、興味津々に彼の右手をのぞきこむ。海堂は二年生から、リョーマは一年生からレギュラーだったことを何気なく海堂が漏らして以来、彼らは目に見えて貪欲になった。気持ちの変化は毎日の練習にも現れて、彼らの真剣な姿勢は顧問の竜崎を驚かせ、喜ばせた。そして竜崎は一年生たちの成長を確かめるたびに酷く優しい目で海堂を見たから、海堂は最近、煩わしいような誇らしいような、むずむずした感覚を覚えた。不快ではなかったが、妙に恥ずかしい。それは四週間前に初めて顔を合わせた後輩たちの視線が、少しずつ変わっていくときに感じるのと同じ感覚だった。
 必要以上は話さない口の重い海堂に、怒っているような無表情も併せて一年生たちは怯えた。時折ふらりと現れる引退した三年生たちの、余裕たっぷりの気楽な態度と海堂は全く違っていた。海堂はいつも酷く真剣で、一年生たちの欠点や間違いや手抜きを容赦なく指摘する。今までどちらかといえば放り出されることが多かった彼らは、突然現れた厳しい三年生に戸惑い、反発するものや部長に不満を訴えるものも出た。苦情を受け付けたリョーマは、けれど最初の一週間が過ぎないうちに、怯えや反発の視線が尊敬と憧れに代わっていくのをニンマリと眺めていた。テニスが好きな奴が海堂を嫌うはずがないと、リョーマは初めから確信していたし、もし本当に海堂に反発しつづけるような部員がいたらそいつの方を辞めさせようと、リョーマは部長失格な決意も固めていた――幸い、不要な決意になったが。現状は上手く行っている、と竜崎はリョーマに向かって笑う。リョーマはそれに頷くが、内心、大きな読み違いに後悔もしていた。
「あれ、リョーマくん?どうしたの?」
「…………何でも」
 部室の外でドアノブに手を掛けたまま立ち尽くしていたリョーマに、もう帰り支度を終えたカチローが中から声を掛ける。リョーマが憮然と返事をしてドアを開けると、部長がドアの外で待ち構えているのに遠慮して部室をウロついていた部員たちが、ほっとした顔で部室を流れ出た。お先に失礼します、の合唱が響く中、カチローは笑顔でリョーマをのぞきこむ。
「何かあったの?あ、海堂先輩?まだ残ってくれてるよ」
「…………そ」
「うん。じゃあ先に帰るね。また明日〜」
「おつかれ」
 カチローはリョーマの腹の内が分かっているのかいないのか、ニコニコと海堂の名前を出して帰っていった。さっと人気の引いた部室を、リョーマは憮然を見渡す。後片付けを終えた一年たちがばたばたと身支度をすませて帰ろうとするのを背中に、海堂はひとり机に向かっていた。テニスバックを肩にかけた一年生が、海堂に話しかける。帰りがけの喧騒に紛れて二人の声は聞こえなかったが、二言三言交わしたあと、海堂は表情を緩めて後輩の頭に手を置いた。撫でるというほどでもないスキンシップに、一年生はくしゃっと笑った。そのままリョーマの脇をすり抜けて帰っていく。先輩と後輩の微笑ましい関係だった。こんな穏やかな光景が最近、海堂の周りで見られるようになった。リョーマ自身が用意したと言えないこともない、本当なら嬉しいだけの落ち着いた様子だ。けれどリョーマは、むしろ海堂が周りと上手くやっていく程に、下っ腹がグルグルするような苛々に襲われる。海堂がなげやりな笑顔ではない、穏やかな笑顔を誰かに垣間見せるたび、苛々は酷くなった。それは勿論、今もだ。部室のドアを開けたとたん一年生にテーピングを教えている海堂を見た時の、自分でも訳の分からない動揺は、まだリョーマを揺さぶっていた。リョーマはロッカーに背中を預けたまま、再び机に向かった海堂をじっと見る。骨ばった手が器用に動き、カツカツと何かを書きとめていく。その横顔はとても真剣で、リョーマの視線に気付く気配もなかった。ただそれだけのことが、リョーマには酷く海堂を遠く感じさせる。
 ほとんど毎日のように顔を合わせ、部活に取り組み、一緒に帰ることも少なくない。距離が近づけは近づくほど、リョーマは全てを削ぎ落としたような海堂が切なくて、その思いは好意を加速させていった。この一ヶ月弱で、リョーマはもう十分に自分の思いを自覚していた。海堂が好きだと思うことに抵抗はなかった。けれど好きになる程、苛々と心はささくれていく。例えば、あの一年生が当たり前に重ねられた手も、隣に座った体温も、笑顔も、リョーマには与えられたことがないのだ。そしてそんな比較をしてしまう自分自身に、リョーマはますます苛立つ。
 あの雪の日といい今といい、リョーマは海堂が居るだけでちっとも余裕の無くなる自分に、小さく溜め息をついた。帰り際の騒がしさも波が引き、部室は静まり返っている。ハァと落ちたリョーマの溜め息は、波紋のように広がって消えた。その余韻に気付いた海堂がノートから顔を上げる。もう、二人きりだった。


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(20050821)

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 リョ海なれそめ話11話目。ラストスパート!