Spider. /6




 建物の病院部分を右手に回ってしばらくすると母屋の玄関、午後六時までならチャイムを鳴らしてお手伝いさんにドアを開けて貰って、六時以降は鍵を使って勝手口から出入りする。柳生に教わったとおりに駅からの道を進むと、五分もしないで『柳生病院』の看板を見つけた。大きなガラス窓が印象的な、小奇麗な病院の正面を眺めてから、そのまま素通りして母屋に向かう。現代的な病院とはうってかわって、良く手入れされた生垣が塀の代わりに植わっていた。門には期待を裏切ることなく、大きな松の枝が堂々と掛かっている。引き戸を開けて庭に入れば飛び石が並び、さりげなく配された植物は門から直接母屋が見えることのないよう上手く隠している。格式ばったというほどではないが、品の良い綺麗な庭だった。
 ようやくたどり着いた玄関は、門や庭の印象からすると控えめな感じがした。しかしそれでも十分立派な、やたらと重そうな天然木らしき扉を横目で眺めつつ脇に回る。笑ってしまった。勝手口、のイメージからかけ離れた、普通の家の玄関だろうこれはというドアを発見してしまったのだ。そして柳生から預かった鍵はぴったりその鍵穴に納まった。何か釈然としないものを感じながら、オレは柳生の家に帰宅した。オレの家のマンションの扉を見て柳生は驚いているだろうな、と自虐的な想像をふくらませながら。


 入れ替わろう。
 お前を捨てた父親を憎んでいるのか、と聞いたオレに、柳生は「だったらどうするのですか?」と質問で返した。にっこり笑顔の慇懃無礼。一瞬で鎧を作り直した柳生に内心わくわくしながら、オレはお互いが入れ替わることを提案してみせた。あの時の、あっけに取られた柳生の顔は忘れられない。ただじっと見つめ返しているようにみえて、わずかにだが口が開けっ放しになっていた。頭の中が真っ白になっているのだろう瞬間を見れたことだけでもう、チャレンジしただけの価値はあったと思う。勿論、計画は実行してこそ価値があるのだが。
 その動揺から見て、入れ替わる、の一言だけで柳生はオレのやりたいことが理解できたようだった。つまり、そっくりな容姿を利用してお互いがお互いになりすまし、それの製造元であるお互いの親の不手際と身勝手を笑う。途中でばれて修羅場に突入したとしても何の不都合もない、というか柳生にとっては願ったりかなったりだろう。積年の恨みをぶつけ、痛烈な仕返しができる。まあ、家の中に騒動を持ち込まれる無関係の兄弟にとっては迷惑な話ではある。
 柳生は開いたままの口をようやく閉じ、もう一度開いて何か言おうとした。けれど言葉が出てこないのか、再びそのまま固まってしまう。自分を見透かされた不快感と降って湧いたチャンスの到来に考えあぐねている、というところか。
「けれど、しかし。あなたには何のメリットもありません」
 ようやく出たと思えば、なんとも可愛げのない言葉だった。オレから言い出しているのだから素直に載ってしまえばいいのにと思う。石橋が何で作られたのかを確かめようとする性格はダブルスのパートナーとしては理想的だったが、今ばかりは少し面倒くさい。けれど返していえば、柳生は入れ替わることにメリットを見出しているということなのだ。憎んでいるのか、の問いに答えはなかったが、今の言葉が答えの代わりになっていた。柳生の嫌な感情を知る喜びと、その感情の一端が自分に繋がっていることの罪悪感。お陰で、せっかく笑顔を作ろうとしたのに少し頬がひきつれてしまった。
「別に?オレな構わん、楽しめれば良いと」
「それは……」
「何も気にせんと利用しんしゃい。おんしん妹には迷惑かけんき」
 な、と軽く促せば、柳生はこくんと首を倒した。幼い仕草にアレと思えば、柳生は手を口元を押さえてそのまま俯いてしまう。床の一点をじっと見つめて何事か考える顔は全くの無表情で、睫毛の影が頬にかかっていた。見方ひとつで鬼にも仏にも変わる、能面のような風情。張り付いた無表情の奥で何を考えているとしても――あるいはオレが自分の家に帰ったとき今までの全てが壊れていたとしても、柳生がそうしたいなら構わない。自分が何も知らないで安穏と暮らしてきたことを差し引いてもそう思えるのは、柳生に優しくされたからだった。
 あの時、みっともなく涙を流したオレに柳生は優しかった。オレ自身が原因の一部でいるくせに柳生が可哀想そうだと泣いた、無知で傲慢な涙だったのに、柳生は頬に手をあて涙をぬぐってくれた。責めたててなじり倒すのなら理解できても、あの目と手の優しさは不可解だった。まったく判らない、けれど涙が止まらなくなるほど優しかった。その人間に憎む相手がいるのなら、間違いなく悪いのは相手だと信じられるほどに。


 扉を開けた先には広い廊下と二階に上がる階段。オレは深呼吸して柳生の家に、柳生比呂士本人として足を踏み入れた。オレの家にオレとして帰った柳生が、オレの家族にばれるのは問題ない。けれどオレはばれてしまう訳には行かないのだ。用があるのは柳生の妹の父親、柳生にとっての義理の父。その人だけだった。
「おっかえりー」
「ただいまかえりました」
 二階から気の抜けた女の子の声が届く。姿は見えない。柳生の妹が帰宅しているようだった。帰宅したら台所で手を洗ってお茶を淹れて、それを持って二階の自室に。妹が居るときはお茶は二杯分淹れて、一杯分はポットにいれたまま台所に残しておく。柳生に聞いた行動パターンを反芻しながら、オレは『柳生比呂士』の返事をした。




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