Spider. /7




 はぁっと、自分の吐く息でかんじかんだ指先を暖めた。ピリリと肌を刺すような寒さ。唐突にやってきた冬の気配に、ぼんやりとした秋の空気に馴染んでいた体が悲鳴をあげる。けれど、決して不快な感覚ではなかった。体全体がぎゅっと引き締まって背筋がピンと伸びるような。要らないものが無くなって、本当に必要なものが鮮明に見えてくるように思えた。
 まだ誰も来ない、校門が開いたばかりの時間から、オレはカギのかかった部室のドアにもたれて座っていた。人の居ない校庭はシンとして広い。冷え切った朝の空気のなか、短くはない時間たったひとりで座っていたせいで、まるで世界には自分しか居ないようにすら思える。開放感と孤独の両方を同じくらいに感じながら、オレはこの世界に入ってくるはずのもう一人を待っていた。
 泣いているだろうか、それともスッキリしたと笑ってくれるだろうか。
 柳生がオレの家でどんな風にふるまい、どんな会話をしたのか見当もつかなかった。だた、柳生が辛かったり悲しかったりすることが、必ずあったはずだった。だから、どうかその痛みが酷いものでなければいい。オレの家の誰を傷つけても構わないから、柳生が痛みを自分の中に抱え込まないていれくれると良い。これ以上どうってことない風に微笑んでいる必要は無いのだと、そう伝えたくて、この馬鹿げた提案をしてみたのだから。
 朝の校庭は遠くまで見渡せるのに、待ち人の影はまだ見えなかった。一体どういう展開があったのかさっぱり分からないままで柳生を待つ今は、悔しいのも恥ずかしいのも通り越して怖い。わくわくして楽しいなんて他人事な感想はどこかにいってしまっていた。シンと澄み切った光景に目を凝らし、空気の冷たさに身を縮ませながら、オレはただ願うことしか出来ない。
 どうか、柳生が楽になっていますように。
 かたちないものに祈るように願いながらオレは、自分の思いの根っこにあるものを思う。――寒さのせいではなく、ぶるりと身が震えた。



 柳生の妹が最後までオレたちの入れ替わりに気づかなかった(年頃の兄妹なら他人も同然だろう)代わりに、義理の父親という人には一目で見抜かれた。
 研究医をしているという彼がスーパーの袋を片手に夕方帰宅し、遅くまで病院を開けている母親に代わって夕食を作る。特に用事のない時はそれを手伝うのだと言った柳生の言葉通り、彼の帰宅にあわせて台所にいった。背の高い男性が振り返るのに、おかえりなさい、と言ってみる。俯いた横顔がちょっと笑ってこちらを見た。穏やかで控えめな笑い方が柳生に良く似ていて、内心ドキリとする。顔立ちに似通ったところはない。けれど優等生で通している時の柳生は、まるでこの男性を写しているような笑い方をした。柳生は彼を慕っていて、彼のようになりたいと思っているのじゃないかと、なんとなく思ってしまう共通点。これからが正念場だというのに、その時オレはなぜだか少し安心としていた。
 彼はふり返りながら、ただいま、と言いかけた。けれど途中で言葉を切ってしまって、そしてまじまじとオレを見つめる。空気の張り詰める一瞬。部活や学校でも、ためしに何度か入れ替わってみていた。その時はお互いに、ばれる気配もなかった。その程度には違和感なくお互いを演じることが出来ているはずだった。オレは内心の冷や汗をぐっと押さえ込む。彼の注視には気づかないふりでスーパーの袋をのぞきこんだ。ガシャガシャというビニールの音が室内に響く。
「……比呂士?」
「今日は何にするんです?」
「八宝菜。……じゃなくて」
 柳生の母親の夫は、律儀に質問に答えてしまってから、考えをまとめるように頭に手を当てた。その間もじっと見つめられてる。さすがにもう気づかないふりも効かなくて、オレはしぶしぶ正面に向き直った。まっすぐ相手を見つめ返す。穏やかな雰囲気の、ごく普通のおじさんが居た。彼は考えを整理するように、軽く自分の頭をはたく。唇を何回か舐めて、それからようやく口を開く。ほんの短い時間のはずだったが、恐ろしく長い一瞬だった。
「君は、誰だ?」
 単刀直入な短い言葉、けれど十分な一言だった。オレはどっと緊張が解けて、代わりに笑いがこみあげる。出遅れた汗がいまさら首の後ろを伝う。柳生の父親がいぶかしげにオレを見ていた。じっとオ観察し、一体何者なのか、彼の息子になにがあったのかを考えている。予想していた内の最高のパターンだった。オレはどうしても笑顔になってしまうのを抑えられない。
「どうも、はじめまして」
「何故ここにいる?」
「おにいちゃんのお家ば見せてもらおう思うて」
 理性的であろうと自分自身に強いているのが判る、硬い声。真剣に怒っている大人の凄みに、さすがに圧迫感を覚えた。胃の底がぎゅっと縮む。けれど自分の劣勢を認めた瞬間、我ながら天邪鬼にも相手をからかう軽口が飛び出た。もっとちゃんと真剣に話をしたいと思っていたのに、自分の無意味な負けず嫌いに呆れてしまう。
 柳生の父親は、けれど、オレのちゃちな挑発に乗ったのではなくて、『おにいちゃん』の一言に反応して表情を険しくする。素早い、良い反応。一瞬でオレと柳生の関係を察したらしい彼に、けれど発言のすきを与えないで続けた。どうやらこの人と柳生は意外にきちんと親子をやっているらしいのが、嬉しいはずなのに、オレはいらいらし始めていた。人間の大きさが負けているのは明らかで、けれどそれは年齢や経験の差を考えれば仕方のない話だ。それなのに、変にむきになっている自分がいた。
「アンタのヤな奴なら、返してもらおう思って。オレのにいちゃん」
「……君は、比呂士と親しいのか。一体いつから」
 ほんの短い時間にも彼の態度や言葉の端々から漏れる、柳生とちゃんと分かり合ってます、と言わんばかりの雰囲気がいらついた。学校での柳生のことなど一つも知りもしないくせに、柳生があんなに冷たい目をしてオレを見たことも、オレとキスして嫌な嫌な顔をしてみせたことも、何も知らないくせに。本当はオレより他人のくせに柳生の家族に納まっているこの男に、無性にいらいらしてならなかった。
 柳生の父親は、押し殺した声はそのままに、ほんの少しだけ口調が早くなる。言葉の合間にちらりと視線が動いて手首のリストバンドを見た。
「ひょっとして、比呂士が突然テニスなんて始めたのは、君が理由なのか?」
「だったらどうすると」
「出来ることなら止めさせたいよ。彼にも妻にも、君はあまり良い思い出じゃない。接点は無くしたい」
 そこまで言い終えてから、君には何の責任もないと判っているんだが、と付け加えた。目の前にいる人間を思い出扱いしておいて、フォローも何もあったもんじゃないと思う。オレはフンと鼻を鳴らした。
「そんなん柳生な決めるっと。オレもアンタも関係なかよ」
「それは、そうだ」
 彼が詰まったように言葉を切ると、ダイニングに沈黙が落ちた。二階で柳生の妹が動く、ごとりという音が聞こえる。ごと、ごと、としばらく続いたあと、その音は止んで、再び沈黙が訪れた。この男には言いたいことも聞きたいことも沢山あるはずだった。けれど、どう切り出せばいいか分からない。言葉が見つからない、なんていう情けない状態でオレが何度が唇を舐めていると、柳生の父親のほうが口を開いた。
「関係ないと言うのなら。なぜ君は今、ここに居る?」



 空気が冷たければ冷たいほど、太陽の光の暖かさが鮮明に感じられる。今はまさにそんな気分だった。短くはない時間、コンクリートの上がり框に座り込んでいたせいで、体中が冷え切っている。けれど、広い校門の口に人影が見えたとき、そんなものは全部忘れた。どうしようもなくはやるオレの気持ちとは反対に、人影はゆっくりゆっくり近づいてくる。オレの姿を確認すると、歩きながら内ポケットに手を入れて眼鏡を取り出す。オレとしては格好よく、彼としてはだらしなくセットされていた髪を左右に撫で付ける。ついでにネクタイに手をやり襟のボタンを留めなおす。ブレザーの肩のラインをきちんと合わせながらオレの前にやってきた人は、それだけの修正ですっかりいつも姿に戻っていた。
「柳生……」
「おはようございます、仁王くん」
 『仁王雅治』の演技を終了した柳生が笑った。いつものよそ行きの笑顔とは、少し違うように見えた。願望かもしれなかったが、オレは思わずため息をついた。ほっとしたのだ。少なくとも、柳生は泣いていなかった。それだけで十分に思える。
「いい朝ですね、テニス日和だ」
 柳生は額に手をやって、まぶしそうにテニスコートをみる。けれど、別に、いつもと同じ朝だった。もう少ししたら柳が来て部室のカギを開けて、さらに少ししたらドヤドヤと皆が駆け込んできて朝練が始まる。ただ柳生がそう言うのなら、そうなのだろうと目の前の人を見上げる。
 レンズの奥の目は日差しに細められて、口元は少しだけ上がっていた。嬉しそうな、と言ってもいいだろう、笑顔。昨夜は一体どうなったのか気になって仕方なくて、それで朝早くから部室の前に座り込んでいたのだけれど、こんな風に笑うのなら聞かなくても構わないと思う。オレの予想をはるかに超えた何かがあった。今はそれでいい。時間と一緒に高さを変えた太陽が、ようやく部室のドアに光を届けた。柳生とオレの影が濃くなる。
「仁王くん」
 上から落ちてくる声。仰ぎ見れば柳生がこちらを見つめていた。
「何か、良い事でもありましたか。そんな風に、笑って」
 ――――全ては。全ては難しく考えるから、面倒くさいことになるのだ。最初からもっと単純で良かった。どうしても声を掛けたくて、秘密を知れば嬉しくて、嫌われれば悲しくて、肌が触れ合えば熱くなって、相手が泣けば苦しくて、相手が笑えば幸せで。それはつまり、多分、凄く簡単なはずだ。
「そ?天気な良いからよ」
 オレは内心の衝撃を押し殺してニヤッと笑う。中学生のガキみたいな遠回りをしてしまった自分への照れ笑いでもあった。あからさまに適当な答えに、柳生は呆れた顔を作る。けれど本気で気分を害したわけじゃない。それが分かっていてオレは誘う。
「なあ、朝練前に一試合せんと?」
 この一言にオレがどれだけ緊張しているか、気づかれないといい。




(20050317)



 におやぎゅスキーの誰もが一度は考えるだろう、兄弟ネタ。ずーっとやりたかったので満足です。仁王がどんどんヘタレてきたのは惚れた弱みのせいです。ご容赦ください。タイトルの『spider.』はスピッツの曲名より貰っています。可愛い君を捕まえた とっておきの嘘ふりまいて というワンフレーズがどうしても、におやぎゅに聞こえて仕方ないのです。捕まるのは仁王、嘘をふりまいているのは柳生です。でも柳生は捕まえたつもりで捕まえられているような気もします。本人たちは大人のつもりで全然全く大人じゃないのです。