Spider. /5




 舌が絡まる生々しい感覚に、背筋がぞくりとした。誰が相手でも行為が変わる訳ではない。けれど触れ合っている相手が柳生だというだけで、言い様のない思いが胸に満ちる。奥歯の裏をたどり唾液を分け合う。柳生の鼻から抜ける声をすぐ傍で聞く。背中に柳生の手のひらを感じる。それらがどうしようもなく気持ち良くて興奮するのは、現在進行形の柳生を知りつつあるからだった。エナメル質の硬さに、ぺちゃりと濡れた音に、火照りはじめた肌に、ただ夢中になる。
「…………ふふっ」
 息苦しさにしょうがなく唇が離れると、お互いの顔が見えるようになる。何となく気まずくて視線を合わせられない。一瞬の空白のあと、同じく俯いていた柳生が小さく笑った。頬を赤くしたまま、堪えても堪えきれないように笑う。見下ろしたその顔はびっくりするぐらい印象が幼くて、どきりと胸が鳴った。
「なにをやっているんでしょうね?」
 柳生はひとりごとのようにボソリと呟いた。視線を合わせられないまま、けれどお互いの背中に回した腕はそのままだ。肩甲骨の下に添えられた熱い手のひらと、自分自身を可笑しがるなげやりな声。ふたつは何ともちぐはぐで、こんがらがった柳生の感情を曝け出していた。笑って肩が震えるたび、うなじ辺りの髪が流れて肌が覗く。大きく動かなければ露出しない場所だったが、見えた肌はしっかり日に焼けていた。こんなところすら真っ黒になるまで一緒にテニスをやっているのに、オレは柳生のことをちっとも知らない。だからこそ、知っていく今にこんなにも興奮しているのだ。
 首筋に浮き出た骨を指で撫ぜる。
 柳生は肩をすくめたが、振り払いはしなかった。
「オレな、おんしば知りたい」
 熱にうかされて漏れた声はかすれていて、我ながらいやらしい感じがした。柳生の反応もあからさまで、眉間にしわを作ってみせた。心底嫌そうな顔で見上げられる。地が整っているだけに、それは妙に迫力のある表情で、ぞぞっと背筋に何かが走るような感覚がある。
 けれどオレは、むしろ、嬉しかった。今まで柳生がオレに向かって、これほど素直に何かを伝えてきたことは一度もなかったのだ。暴露のせいか絞殺未遂のせいかキスのせいか、あるいはみっつが揃ってなのかもしれないが、立て続いた出来事は柳生のガードを脆くしていた。ぼろぼろと、剥き出しのまま零れ落ちてくる言葉や表情。本当は柳生が見せたくないと思っているものを、弱ったところに付け込んで無理矢理見ているのだとしても、オレはそれらを全て見ておきたくて仕方ないのだ。
「……なぜですか」
 唸るように低く、じとりとした問いかけ。それでも柳生の手は背中に留まったままで、声は体内を響いて伝わってくるのが可笑しい。思わず口元を隠すと、柳生のしわは益々深くなる。前にコーヒーショップで見たのとも違う、知らない柳生がどんどん出てくることに、オレは興奮して嬉しくて楽しくなる。
 一向に笑顔を収めないどころか肩まで震わせはじめたオレに、柳生はしばらく冷ややかな視線をくれた後、興ざめしたように溜め息をついて眉根を解いた。同時に両手も解いてしまったので、背中のあたたかさは立ち消えた。
 柳生はあきれた風にそっぽを向いて言う。
「そもそも、何故こんなことになっているんです?」


 柳生が指を離したことが原因だったのだとオレは思う。
 気まずそうな視線に涙を示されたとき。オレは何を言われているのか分からなくて、呆然と柳生をみた。うながすように柳生の腕が伸ばされ、指の腹が頬にふれる。ひたりと濡れた感触は確かにあったが、それよりも痛ましげに眉を寄せ決して目を合わそうとしない柳生に、どうやら自分は泣いているのだと認めた。指は何の違和感もなく涙をたどり、オレをなぐさめるように動く。どうしたって悪いのはオレなのに、穏やかに優しく触れてくれる柳生が不思議だった。泣いた恥ずかしさを感じる以上に、柳生が不可解だった。暖かい指先は涙の筋をたどってのぼり、きっと赤くなっていたのだろう目のふちを人差し指がなぞった。
 その瞬間、無意識に自分の指を追っていたらしい柳生の視線と、がちりと噛み合った。深い褐色をした目は、同情するような慈しむような、痛みを抱えたような、諦念の目だった。まじまじと、引き込まれるように覗き込む。ほんの数日前、いや数日前どころか、たった数分前までは上辺ばかりの哀れみを乗せていた顔が、仏のそれを写したような情深さを湛えていた。まったく不可解で目を逸らすことが出来なくて、胸の辺りがグサリと痛む。
 一秒か、一秒にも満たないか。時間にすれば短いものだったろう。柳生は視線が合ったのに気づくや否なとっさに俯き、同時に腕を退いた。暖かい肌と肌が離れ、あいだにあった水分は空気に触れてすぐ温度を下げ始める。遠のいた指先から冷えた水滴が落ちたとき、オレの理性はふたたび消えたのだと思う。
 離れる指先を捕まえ、手のひらに握りこみ、与えられた暴力を思い出し堅くなる体を引き寄せ、抱きとめ、顎を掴んで口付けた。硬直する唇を押し開き、口内に入り込む。暖かくぬめった生々しい感覚を得て、オレは内心ほっと息をついた。例え理解出来なかろうと、あるいはあの目すら上辺の作り物だとしても、一度与えられた優しさが再び離れていくのは耐えられなかった。
 体温をむさぼるように、すがりつくように長く口付ける。けれどそれはガタンという物音で唐突に打ち切られた。扉一枚を隔てた向こうに人の影が見、お互いを突き放すように離れた。今がどこなのかを思い出すのと同時に開く扉、入ってくるひと。
「お?お前らなんでまだ――――」
 部室にやってきたのはユニフォーム姿のジャッカルで、何か忘れ物でもしたらしかった。手ぶらのまま入ってきて、けれどノブに手を置いたまま固まってしまう。カチンと凍りついたような過剰な反応。
「オレは何も見なかったからな。何も言わない、心配すんな、じゃあな」
 ぴくりとも表情を動かさないまま、ジャッカルは回れ右して部室を去った。というか、部室に一歩も入らないままコートに戻ったようだった。一体なにごとだと呆気にとられ、次の瞬間キスシーンを見られたかと思い当たって血の気が引いた。
 ホモだゲイだと噂をたてられたところで、オレは痛くも痒くもない。もてすぎる程もてている自覚はあるのだ。けれど柳生は違う。噂にどうこうするような可愛い性格でないのはもう十分承知だが、それでも外面は真面目な優等生だ。その評判をオレが原因で傷つけるのは、あんまりに不本意だった。
「柳生、わるい!」
「……何がですか?」
 オレが珍しく慌てている自覚があるというのに、同じく当事者であるはずの柳生はのんびりとしたものだった。何を聞かれているのか分からない、と首をかしげる。あどけなく見える仕草も、けれど濡れた唇に染まった頬ではエロティックなことこの上ない。カアッと血が上りかけ、そんな場合ではないと慌てて自分を打ち消す。
「だって今、ジャッカルば見とろうが!」
「……はあ。それで、何が私に悪いのですか?」
「何がて、おんし、ホモ扱いばさるうて構わんと!?」
「ホモ?…………ああ、そういうことですか」
 ようやく納得がいった、という風に柳生は頷き、そして眉をひそめて笑った。困ったの半分、可笑しくて仕方ないの半分の笑顔。
「違いますよ。ジャッカル君は私たちに驚いた訳じゃありません」
「はあ?じゃあ、何で」
 何であんなふうに逃げてったんだ。オレはそう言うつもりだったが、全てを言い切ることは出来なかった。何でと言いかけたところで、柳生の笑顔がスッとずれる。あ、と思ったときにその顔はもう目前で、次の瞬間には頬に息が当たっていた。目の下を舐められる、しめった暖かい感触。オレがあっけにとられる内に、いつの間にか肩に乗っていた柳生の両手が動きをおさえて、舌は反対側の頬までたどっていく。べろりと舐めあげられて、おまけとばかりに閉じた目蓋の上までなぞっていった。
 舌にのった睫毛を指で落とす仕草がとんでもなくいやらしい。平然と身を離した柳生がオレにはまるで別人のように見えた。呆然とみやる視線に気づいたのか、その人物もようやくオレに視線を向ける。とたん、心底嬉しい風に目を細めた。優しいというよりも、その人が喜んでいるのが分かる、笑顔。オレの知っている柳生にいくらか似ていたが、基本的な何かが違っていた。
「ああ、よかった。やっと止まりましたね」
「何が」
 さっきから尋ねてばかりの自分に気づいていた。目の前の人は分からないことばかり言うから、子供のように聞くしか出来なくて、オレは妙に居心地が悪い。どちらかといえば尋ねるよりも教えるほう、周りより少し上のところに居るのが基本スタンスだ。けれどあの夜から柳生とは全く立場が逆転していた。何も分からないで戸惑う現状は、悔しくて恥ずかしくて、そして本当にほんの少しだけ、楽しい。
 オレは柳生が応えるまでの何秒にも満たない時間を、どきどきしながら待っている。柳生は笑ませた目元をわずかに陰らせた。
「涙が。――貴方が泣くと苦しくなるのが判りましたよ。もう二度と苛めたりしません」


 それに、じゃあ今度なオレば苛めちゃる、と返し、もう一度腕を引き寄せたのが始まりだったと思う。
 オレはいまさら柳生相手に格好つける気にならなかったし、柳生も以前のような礼儀正しい一見親しい、その実そっけない態度は見せなくなった。そして、ことあるごとに柳生の手を引きキスを繰り返した。その度に柳生は別人のように見えて、その度にどきどきした。
 不思議とオレを拒まない柳生につけこんでは回数を重ねるうちに、キスの合間にぽつりぽつりと本音もこぼれる。それらを少しずつ縒りあわせていけば、柳生の抱えるコンプレックスがぼんやりとだが見えてきていた。
「なあ」
 横をむいていた柳生が、ちらりと目だけでこちらを見る。眼鏡を必要としないのが分かってしまう仕草は、他の人間の前では決してしない。自分は柳生の中で内側に近い場所にいるのだと願って、オレは言った。下手をしたら逆鱗に触れることになるのも分かっていたが。
「柳生な親父の憎いと?」
 目だけこちらを向いていた視線が、スッと眇められる。素直に腹立ちを示していた口元は真横に引き結ばれ、その後で両端が持ち上がった。腹の奥がぞくぞくしてきて、オレも笑みが浮かんでくる。
 鬼が出るか仏が出るか。どちらに転ぶのかさっぱり分からないで柳生の反応を待つ今は、悔しくて恥ずかしい。けれどその分だけ、今まで感じたことがないくらい楽しくて仕方なかった。
 




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