Spider. /3




 終礼の終わった教室で、わらわらと散っていくクラスメイトたちの気配とうるさい位のざわめきを意識しながら、けれど動く気になれず、机に乗せたテニスバックの上につっぷした。かけられる声はない。
 自分で言うのも何だかオレは女子にはもてる方だ。気安く話せて、小綺麗だから。お陰で、教室でちらちらと送られる好意に満ちた視線や登下校時の親しげな挨拶にはすっかり慣れきっていた。それじゃあ何故今、誰も傍に寄ってこないのか?いつものように、「仁王くん、どうしたの?気分、悪い?保健室付き添うよ?」などなどの計算高くも可愛らしい声が降ってこないのか。理由は分かりきっていた。オレが小奇麗でも気安くもなくなったからだ。女の子というのは人の変化にひどく敏感だ。きっと彼女らには理屈や観察抜きに変化を知る特殊な機能が備わっているのだろう。随分便利なものだ、と漫然と考えたところに誰かに頭をはたかれた。文句を言う気にもならずうっそりと顔を上げる。
「お前邪魔、机下げんだよ。とっとと部活行けや」
 男にはその機能がついていないらしく、掃除当番らしいクラスメイトの態度は変わらなかった。その鈍感さをいつもは馬鹿にしていたものだったが、今となればそれは大らかさであり美点だ。いつも通りの無造作なコミュニケーションに、少しばかりの救いを得た気分で笑い返す。クラスメイトはちょっとだけ妙な顔をして、しかしさほど気にする様子もなく、もう一度仁王の頭をはたいて去っていった。二度叩かれた場所が微かに暖かい。お互いの体温を感じる他愛ない接触に慰められ、そしてはたと気付いた。そういえば、柳生とはまだ一度もこんな風に触れあったことがない。
 練習の時も試合の時も、準備体操の時でさえ、思い返せばあからさまな程、けれどとてもさりげないやり方で、柳生は体温が伝わる距離にオレを近寄らせていないのだ。握手すら、したことがない。赤也のぐしゃぐしゃの髪を直してやっていたのに。幸村を気遣ってジャージを掛けてやっていたのに。丸井の傷を丁寧に消毒してやっていたのに。オレには髪のハネを指摘し、置き忘れたジャージの場所を指さし、絆創膏を差し出した。
 一つ一つはとてもささいで、気にするまでも無い。けれどそれが積み重なった物を今更気づいてしまって、オレはようやく柳生に疎まれているのかもしれない可能性をようやく理解した。ショックだった。

 柳生がオレを笑った日から、オレは鏡を見るのが怖くなった。洗面所、女子の机の上、教室の後ろ、学校のトイレ、ガラス張りのショーウィンドウ、風呂場。鏡なんてまだまだある。その一々に移りこむ自分自身を見つける度にオレは怯えた。オレが鏡の中で目を合わせる顔は決まって柳生だった。夕方のコーヒーショップで対峙したあの男だった。何も言わず――当たり前だが――ただ緩く微笑む。その底の知れない顔にみっともなく目と口を開いた自分が重なって見えて、体が固まる。頭の奥が金縛りにあったようにすうっと思考が止まる。考えたくないのだ。柳生が示した先にあるもの。それは考えてはいけないものだ・考えれば何か良くない結論が出てきてしまうのだと無意識が警鐘を鳴らしていた。
 だから、鏡は出来る限り避けた。結果として、小汚くなった。女子に避けられるのは悲しいが、あの訳の分からない笑顔を見るよりは幾らかマシだった。ついでに人当たりが悪くなった。こんな精神状態で他人にまで気を使っていられるものか。
 部室へと廊下を歩きながら、けれど足はのろのろと重くしか動かない。部活に出たくなかった。鏡に浮かぶ幻覚の元と、必ず顔を会わせることになるからだ。けれど、テニスはしたかった。もっと強くなりたかった。シングルスでは無理でも、ダブルスでなら上まで行けるのではないかと思っているから。と、そこまで考えたところで再び、深く沈みこむ。その肝心のパートナーこそ、顔を合わせたくない正にその人であり、その上、オレを嫌っているらしいことが判明したばかりだった。もう、何もかもが最悪。目つきも悪くずるずると歩いているためか、仲良しの女の子たちは声を掛けてくれるところが目もくれやしなかった。薄情者め――オレも人のことが言えた義理じゃないが。
 周りの全てがちくちくと棘を出しているような気分で、部室の古びたドアを眺める。このドアを無造作に開けていた昨日までに戻りたい。ノブに手を掛けるのさえ、ためらわれた。首を落としてため息をつく。しかし。
「……!!って!!!」
「うわ、お前、なにやってんだよ、馬鹿!!!オレ悪くねえぞ!」
 ごん、と低い音が頭蓋骨に良く響いた。ブン太が威勢良く押し開けたドアに、したたかに頭を打ち付けたようだった。じんじんと脳味噌を駆け巡る痛みにまともに声も出ず、しゃがみこんだ。ブン太といえば人の心配どころか、罵りのあとに責任を押し付けてくる。
 今の場合、ブン太じゃなくてオレが悪いは確かだが、その前にオレの痛みに配慮しろというのだ。そうでなくても痛む頭に大音量を浴びせられて涙が出そうになる。こういう時は、大丈夫ですか?とか、どこが痛みます?とかそういう、意味が無くても構わないから、とにかく優しい言葉を掛けるべきなのだ。
「……ああ、そうだ。ちょうどいいや。あのさぁ、ちょっと確認したいんだけど」
 ブン太は優しい言葉どころか、こんな状態でも用件を片付けてしまう気らしい。お前、鬼だろう。しゃがみこんだ視線の先に見えるブン太のテニスシューズを睨み付けた。もちろんブン太に分かる訳がない。オレの返事を待つそぶりもなく話しを続ける。
「昨日さぁ、仁王、柳生と一緒に帰ったんだろ?お前、アイツに何かしたの。もしかして苛めた?柳生が元気ないんだよね」
「……苛められたんはオレじゃボケ」
「何?聞こえない」
「なんも言っとらん……」
 痛いのと考えたくないのでオレはずるずると座り込む。柳生に元気がないのか、なぜだ。あれほど勝ち誇ったように笑っていたのに。オレは完全にあいつに負けたようなものなのに。何かオレの知らないことをあいつは知っていて、その事実はきっとオレにとって致命傷になるものだ。まさしく薮を突付いて蛇を出した。そういう状態だ。
「ふーん?なら良いけどさ、お前、もうちょっと柳生に気ぃ使ってやれよ?あいつ途中入部でレギュラーになった分、風当たりキツイんだからな」
「え……」
 オレが自分の考えに突っ走るのと同じように、ブン太も言いたいことを言ってしまう。それはいつもの事だったが、今日のブン太の言うことは、オレは全く知らないもものだった。反射的に顔を上げてブン太を見る。軽い調子で話していたブン太は、けれど、思ったよりもずっと険しい顔だった。常に上がっている唇の両端が、真一文字に引き結ばれている。
「え、て、知らなかったの?マジで?」
 その声は冷ややかで。オレが頷くと、ブン太は呆れたようにため息をついた。そして、お前、サイテー、と前置きをくれた後でようやく説明してくれた。

 曰く、テニスを始めて半年にも満たない初心者がレギュラーになれたのは、単に仁王のひいきの為だと。仁王が柳生と組まなければ試合に出ないと言ったとか言わないとかいう噂が、部員の間で実しやかに広がっているのだと、ブン太は言った。そのせいで柳生は日常の細々とした、それ故に陰湿な嫌がらせを受けているようだということ。配布物が回ってこない、集合時間を少し遅めに伝えられる、タオルが無くなる、すれ違いざまの中傷。思わず眉をひそめたそれらに、ブン太は深く頷いて付け加える。
「柳生がまたそういうのをアッサリ受け流しちゃうもんだから、連中、余計イライラしてんだよ」
「でも、ひいきって。単に柳生な才能あるってだけと」
「……そんなこと言ったら、アイツが益々やっかまれるけどな。お前が連れてきたんだからな、ちゃんとお前がフォローしろよ?」
 ブン太の口調は普段どおりに軽い。けれど眼光は切れそうに鋭かった。少しばかり胆が冷えて、とっさに言葉を返せない。しかしその言葉以上に、ブン太が柳生にかなり肩入れしていることがオレには意外だった。学生にとっては短くない、けれどほんの4ヶ月。もう2年以上の付き合いになる同学年の部活仲間を『連中』と、冷ややかに突き放してしまう程に柳生を気に入っているのは知らなかった。けれど、ブン太の視線を宥めるため、兎に角うなずいてしまう。
 言いたいことを言い終わったブン太は満足そうにニッと笑うと、しゃがんたままのオレの額を軽く叩いてコートに向かった。故意か偶然か、ドアに直撃した部分をもろに叩いて、だ。
「ったっ……!」
「だってさー柳生!お前もちゃんと、言いたいことは自分で言わなきゃイカンよ?」
「別に、言えなくて我慢している訳ではないですよ」
 大げさに痛がってみたすぐ後ろで、声がした。いつものように抑制の効いた、けれど冷たくは無い声。ブン太はそれに、知ってるけどさ、と笑って応えて、そのまま気配が遠ざかる。入れ替わりに近づいてくる気配に、オレは身を硬くした。
「……仁王くん?大丈夫ですか?」
 後ろの声が横に回って、そしてオレと同じ高さまで降りてきた。柳生はオレの隣にじゃがみこんで覗き込む。レンズ越しの目がオレを見る。さっきのブン太の言葉も、まして昨日の遣り取りも、何も知らないような目だった。気遣う言葉が当たり前に落ちてきて、オレは何故だか泣きたい気分になる。
「仁王くん?」
 オレは訳が分からなかった。オレとまるでそっくりな顔をして、素通しの眼鏡を掛けて、部員にいじめられていて、そして今、心配そう覗き込んでくる、この男。もう半年近く一緒に居るこの男が一体何なのか、オレには全く分からなくなった。




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