Spider. /2




 コトン、と軽い音をたてて紙コップが置かれる。適当に客の入った夕方のコーヒーショップ。店の奥のほうに空いていた座席は一人掛けの深いソファが向き合って置かれたもので、そこに柳生と二人で座るのはなんだか妙な気分がした。
「おまたせしました。同じものを頼めば良かったですね、ごめんなさい」
「いや、どうってことなかよ」
 相変わらず細かいことを気にする柳生に、いつものように答える。どこかお互いの言葉が上滑りしているのは百も承知だ。自分の膝に肘を付き手を組んだ柳生はいつものように穏やかな笑みを浮かべている。けれど、やはりいつもとは違っていた。考えてみれば、こうして二人きりで向き合ったことなど殆どなかったことに気付く。ダブルスの練習の時も、常に他の部員と一緒の場で言葉を交わしていた。『いろんなアイデアを聞いて作戦を立てたほうがいい』という柳生の言葉に、オレも同意したためだ。
「今日はまた、冷えますね。秋もお仕舞いといったところでしょうか」
 紙の容器を包むように持ち、プラスチックの飲み口にそっと唇をあてる。何ら変わることのない普段の、柳生らしい丁寧な仕草。それに妙な圧迫感を感じて仕方ないのは、きっと柳生の目のせいだった。眼鏡の奥からこちらを見つめてくる目は、オレを通ししてどこか遠くを見据えているような、奇妙な意志をたたえていた。
「なあ、柳生」
「はい」
 ひたりと見据えられる目。緩く微笑みんだ口元や穏やかな口調、丁寧な挙動が醸し出す柳生の理性的で優しげな印象とは全くそぐわない、冷徹に人を値踏みする目に見える。オレが訳もなくそう感じているのか、あるいは。
「…………本題に、入りましょうか。流石の貴方も言い出しにくいご様子ですから。コレのことを、お聞きになりたいのでしょう?」
 コレ、と柳生は自分の目元に手をやる。レンズのふちを指で押さえた。レンズの真ん中にある目が、ゆっくりと弧を描いてたわむ。笑ったらしかった。
「ワタシ、色弱なんです。そんなに重いものではないのですけれど、やっぱり時々不自由がありまして。なので、この眼鏡で矯正しているんです」
「へえ、色弱。……そんなん、全然知らんかったと。大変っとね」
「いえ、さほどでも無いです。嘘ですし」
「……はぁ?」
 一瞬意味が分からず、思わずまじまじと柳生の顔を眺める。しかし変わらない笑顔だ。一体柳生とはこんなことを平然と言うような性格だったろうか?今こんな意味のない、たちの悪い嘘をついてみせる理由などあるのか?
 秋口にオレが柳生をテニス部にさそい、そして今は十二月。もう四ヶ月弱、ずっと一緒にいたはずだ。学生にとって決して短い時間ではない。その間、柳生はずっと穏やかで理性的、言ってしまえば理想的な優等生としてオレの前にいた――――いや、ずっと?そうだったろうか。
「色盲が眼鏡で矯正できるわけがないでしょう。この眼鏡は素通しです。今更邪魔もないですが、無くても支障はありません」
「んじゃ、なんで、んな……」
 柳生の口端がつり上がる。柳生らしからぬ、あまり品の良くない笑い方。何となく嫌だな、と思うのと一緒に、どこかで見たことのある気がした。よく知っていると思う笑い方、その顔。
「ワタシの嘘、信じたかったのでしょう。時々不自由が、なんて、今までちっともなかったことを知っているのに、貴方はあっさり受け入れしまって。あの嘘にほっとしたのでしょう。本当のことに気づきたくないのでしょう?」
 でも駄目です、貴方は気づいてくれなくてはいけない。柳生は淡々と喋る。楽しそうでも苦しそうでもなく、義務でやらねばというのでもない。ただ理性的に優しげに語り掛けてくる。おかげで柳生が言っていることと同じ位、柳生が今何を思っているのか分からなかった。不思議と見慣れた、人を食った表情を作る柳生にイライラする。
「お前さん、何こきよると?もっとハッキリ喋れや。まどろーしかこた、趣味に合わんと」
 思ったよりも、強い言葉が出てしまった。声のとげとげしさが店内に低く響いて、となりのテーブルの女性がちらりと視線を向けてくる。余裕のない様が傍目にも見え見えだ。オレはそれを自覚して、チッと舌打ちした。何故自分がこんなに苛立つのか、分からなくて、それがまた苛立ちを加速させる。
 自分が苛々としたオーラが発しているのは分かっていた。隣の座席の空気の悪さに、並びの席の女性たちはそそくさと移動してしまう。柳生はオレの不機嫌を真正面で受け止めながらしかし、むしろ楽しむように、笑みを崩さずコーヒーに口をつけた。言葉を返そうとしない様子にじれて思い切り睨みつけて、ようやく柳生は話す。眼鏡のレンズを通さない上目使いで合わせられる視線。
「見覚えがあるでしょう?」
 けれど、たった一言。柳生はそれだけで言葉を止めてしまう。苛立ったまま続きを促そうと口を開いた、開きかけた時、柳生の手が振れて紙コップを倒した。コップに装着されたプラスチックのカバーが幸いして、中身が大きく零れることはない。けれど飲み口からはわずかにコーヒーが漏れ、オレの手の甲にかかってしまう。
「あっつ……」
「ごめんなさい!大丈夫ですか?すぐ、冷やしたほうがいいです」
「いらんよ、んな派手なことせんでも…」
「お客様、こぼされましたか?こちらに洗面所がありますので、ご案内します。テーブルの方はどうぞそのままで。こちらで片付けますので。お連れ様には替えのコーヒーをお持ちしますね」
「すいません、お願いします」
 柳生の声が響いたのか、すばやく傍に寄ってきた店員に先導に立たれてしまう。舐めれば済む程度だとは思ったが、ここまでされては断るのも具合が悪いと大人しく席を立つ。柳生は片付けにきた別の店員に頭を下げていて、どうも言葉を交わせる様子でない。話の腰を折られた形になって、店員に礼を言ってトイレに入りながら苛立ちが収まらなかった。

「一体あやつ、何なしたいんね」
 ざあっと流水に手の甲をさらしながら、思わずぼやく。柳生に主導権を握られた会話はまったく面白くなかった。謎掛けめいた言葉ばかりを並べられて、こちらはまるで受身しか取れない。眼鏡にあるらしい隠し事を見つけたのはオレなのに、その秘密はちっともオレに有利に働いてくれないようだった。藪を突付いてみたら奥にいた妙なものに威嚇されてしまった、そんな感じだ。
「もう、やめておこうかのぅ」
 威嚇に負けてすごすごと引っ込む形になるのは癪だが、このまま翻弄されるばかりの会話を続ける趣味はない。そう、柳生の新しい一面を覗かせてもらったことだし、この辺りで引くのが頃合いかもしれない。自分を納得させる言い訳をみつけて、そして次に柳生を納得させる言い訳を探した。流水にさらす、ほんの少しだけ赤くなった肌。帰って治療がしたいのだとでも言えば、あの真面目な男は自分の仕業に謝りこそすれ、会話を途中で放り出すことへ文句など言うはずもないだろう。
「まあ、真面目なばっかりじゃ、なさそうじゃけんの……」
 笑わない目、人を食った言葉、馬鹿にした笑顔。我ながら見る目があったなと可笑しくなる。ただ真面目で善良なばかりでは面白みに欠ける。学年の半ばで部を移ってきた思い切りの良さといい、今日知った顔といい、きっと試合に強いタイプだろう。先が楽しみだなと思わず笑みが漏れる。ユニークなライバルが多ければ多いほどいい。強いほど、倒しがいがあるというもの。
 ざっと冷やしたやけどを確かめ、水を止める。これから言い訳に使うのだから、治しすぎても具合が悪い。せいぜい痛みを堪える笑顔でも作っておこうと目の前の鏡をのぞきこんだ。
 酔ったような浮かれた気分がすうっと醒めた。
「………………ああ、コレな」
 柳生らしからぬ笑顔の意味が、ようやく分かった。見覚えがある訳だと納得する。なるほど柳生はずっと前から知っていたのか。何も知らないオレをあの笑わない目で観察していたのか。……あの穏やかな素振の下で、怒りと嘲笑を溜めていたのか?
 あの笑顔はオレの笑顔とそっくり同じものだった。
 他人の空似とか、そんな偶然ではありえない、そっくりそのままの。




next