Spider. /1



「あ、れ……?」
 オレが柳生のメガネが奇妙であることに気付いたのは、ささいな偶然がキッカケだった。
 いつもの部活のあと、8時から観たいテレビがあるとかで、ジャッカル・ブン太・赤也の三名が雪崩れるように部室に駆け込んだ。たまたま先に上がっていた柳生とオレは、けれど、そんな騒がしさは日常茶飯であるので、ギャイギャイと騒ぐ連中に見向きもせずに黙々と着替えていた。しかし柳生は運が悪い。着替えの途中で外したメガネをちょうど掛けようとしていたのが、じゃれるブン太と赤也が少々エスカレートしたとばっちりを受けてドンと背中を押されてしまい、その拍子に眼鏡がカンカンと音を立てて床に転がった。オレの足元にやってきた華奢なフレームを拾い上げるて笑ってしまった。。ツルのあたりにアールヌーボー調の植物紋様が装飾されたデザインは中学男子らしくなく可笑しかったし、柳生の繊細インテリイメージに嵌り過ぎていることも可笑しかった。
 柳生がほっとした表情を浮かべ礼を言おうとする前に、物は試しとオレも掛けてみる。ロッカー内にオレが自分で貼り付けた鏡を覗き込んでどんなもんかと見てみれば、思ったよりもずっと違和感がなくて意外だ。プラスチックのフレームのいかにも〜なお洒落メガネは何個か持っているのだが、これは新しい発見だった。鏡を眺めてちょいちょいと髪を整えながら今度は正統派メガネもあつらえようか、と考えたところでハタと気付いた。なんでオレは見えているんだろう?
 オレの視力は良い。自慢出来る位によくて教室の一番後ろの席からでも教師の目尻のシワが確認できる。そのオレが歪んだレンズ越しの世界を正常に見るなんて事はありえない。突然オレの視力が下がったか、あるいは柳生の眼鏡に度が入っていないかしか考えられないではないか。
「拾ってくださって有難うございます。お返し願えますか、仁王くん」
 柳生の声がかかり同時に眼鏡のブリッジに白い指がスイとひっかかりそのまま掬い上げられる。願えますか、と依頼している割に強引だ。柳生は取り返した眼鏡を両手で丁寧に掛け直し、長めの前髪をツルと一緒に耳の後ろに掛けてしまう。半分だけ隠れた耳と掻き揚げそこねた後れ毛が妙に色っぽい。これだけ見えるからには視力が落ちたということはないだろう。つまり柳生は伊達眼鏡野郎という訳だ。テニスでは邪魔にしかならないだろうに、随分と頓狂な趣味だ。いやもしかして、ゴルフでは有利に働いたのか?遮光メガネ?な訳はない。分からないことは本人に尋ねるべきである。
「なあ、お前さん、ホントは眼鏡ナシでも見えとーと?」
「…………いいえ?乱視が酷いもので、眼鏡がないとワタシの視界はかなり危ういですが?」
「…へぇ。大変さね。コンタクトには出来んと?」
「もう馴れましたよ?乱視はコンタクトでは矯正が難しいそうで、あまり考えてません。眼鏡で不自由は無いですし」
 口元にアルカイックな微笑みを浮かべて柳生が説明する。ソツの無い、理屈の通った綺麗な言葉。柳生らしいと言えば正しく柳生らしい素振りだが、オレは知っている。柳生の言葉に半疑問が増えたなら、それは緊張している証拠。柳生は大抵言葉を綺麗に言い切るが、相手を説き伏せようとする時は、ほんのわずかだがいつもより饒舌になる。そして押しが強くなる。結果高飛車な半疑問が増えるという訳だ。つまり柳生の感じが悪いなぁと感じたときは柳生が何かをごまかしたり隠したりしたい時なのだ。オレは柳生の弱みを見つけた気分になって思わずニヤリと頬が歪む。
「そーかー。馴れっつーんは随分凄いもんだのう」
「ええ、まあ」
 優位に立ったような余裕からか、オレの口調は随分いやらしくなってしまった。しかし柳生はそれをさらりと受け止める。ネクタイを締める手つきもよどみなくなめらかで、口の端には笑みさえ浮かんでいた。天性の嘘吐きとはこういうヤツなのだろうと感心する。しかもそれが『紳士』のアダ名を持つほどの勤勉実直真面目クンなのだ。これだから人は面白い。
「なあ」
「ハイ?」
「今日このあと付き合って?」
「……あまり遅くならなければ、構いませんよ」
 にっこり笑顔で了承された。静かで、落ち着いていて、それでいて背筋がぞくりと冷えるような笑顔だった。好奇心は猫をも殺す、なんて諺が、今更に頭をよぎっていった。少々遅かったようだ。

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