Spider. /1.5



 あれは、秋の、暮れ方で。彼がワタシに手を差し出した時、一体なんの冗談か、はたまた今更嫌がらせかと、心の底から驚いたものだ。幸いワタシは顔に感情の出にくい性質であったから彼にこの動揺が伝わらなかったのだけれど、今となってみればそれは良いことではなかったのかもしれない。何にしても、ワタシは、彼の誘いが正気のものとは思えなかった。彼の誘いに乗る気など、ほんの欠片もなかったのに、ワタシは何をのこのこと相手のテリトリーに足を踏み入れてしまったのか。あの時自分が何を思って彼に着いて行ったのかサッパリ分からないけれど、原因があるとすれば、彼への興味に他ならか無かった。彼がワタシに声を掛けるずっと前から、ワタシは彼を知っていて、そして彼を避けて日々の学校生活を送っていた。気になって気になって仕方なかったけれど、それを態度に出してしまうことは家庭内が幸せでないと認めてしまうようでワタシにはとても出来なかった。そう、彼の誘いの言葉は、ワタシの本当の望みを取り出したようなものだった。

 仁王くんがワタシの眼鏡を手に取ったとき。しまった、と思ったのと裏腹に、心のどこかが微笑んだ気がした。
「あ、れ…?」
 彼がワタシの眼鏡を戯れで掛けてみて、その違和感に気が付いたようだった。眼鏡に度が入っていないこと自体は、ばれてもどうどいうことはない。問題はその理由を尋ねられることだった。しまったな、さてどうしようか。眼鏡越しにこちらを眺める仁王の顔を、見えていないふりをして考えた。伊達眼鏡ももう2年のキャリアだ。裸眼で見えていないように見せかけることぐらい簡単だった。だから、本当は仁王くん本人が眼鏡を返してくれるまで待てば良かった。それが出来ずに強引に取り返したのは、ワタシの眼鏡を掛けた仁王くんの顔と、眼鏡を掛けていないワタシの顔を並べて他人の目に晒したくなかったせいだった。
「今日このあと付き合って?」
 やたらと嬉しそうな、何かをたっぷり含んだ顔で囁かれた。潜めた声は普通に話すより人の注意を引いてしまうのにと、少しばかり呆れる。手に入れたばかりのジョーカーに興奮しているのだろう仁王くんは随分と幼く無邪気だ。この人をこんなふうに幸せに育てるために、周りの大人たちはどれだけ苦労したのだろうかと考える。家族の抱える影の部分を彼には決して見せぬよう、懸命に愛で包んできたのだろうか。最初の最初から全てを知らざるを得なかった自分とは、随分違うだろうことは間違いなかった。自分を裏切った人が大切にしてきたもの。それを今、自分はたった一言で壊すことが出来る。酷く魅力的な誘惑に、逆らおうとは思わなかった。ジョーカーを手元に引き寄せた人間が負けるのは、誰もが知っているルールだ。
「あまり遅くならなければ、構いませんよ?」



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