盲人のうそ・9





 照明の少ない廊下を仁王が進む。響く靴音は一定のリズムを刻み、柳生は半ば駆け足になりながら付いていった。仁王が怒っているのは分かっても、柳生はそれに謝ることが出来なくて、それでも傍に居たかった。ただ押し黙って柳生は仁王を追う。ふたつの靴音で廊下が満ちる。ひとつがひとつを追いかけて決して重ならないまま続いていく音は、暗くて狭い空間をいっぱいにして、次第にふたりの心に圧し掛かった。柳生はどこまでいっても近づいてくれない仁王の背中を見つめる。柳生自身とほとんど変わらない、細くて痩せた背中だ。それが頼りないのではなくて、ただ傷付いて欲しくなかった。柳生が望んでいるのはそれだけだ。
 それなのに、上手くいかない、と柳生は沈んだ気分になる。心と一緒に首も垂れ、背中から足元へと視線が落ちる。大きな歩幅で進む踵は柳生の視界から消えては戻りを繰り返す。そしてカツ、と一際大きな靴音が鳴った時、踵はぴたりと視界に留まった。柳生は思わず自分の足も止めて仁王の顔を振り仰ぐ。けれど恋人の表情を確かめるより先にぐるりと視界が回った。肩を上から強く掴まれる痛み、そして背中を何かに押し付けられる。床に投げ出された衝撃に柳生は一瞬息を詰め、痛みと不快感に顔を歪める。閉め切った部屋独特の埃っぽい空気と暗い照明、うっそうと立ち並ぶアルミの棚をとっさに確認して、資料室に連れて来られたのが分かった。確かにここなら落ち着いて話せる、と柳生は仁王のするがままになりつつ、どこか落ち着いたまま構えていた。けれど、上からぽつりと、濡れた感触。首筋が何かが流れたのに気がついて柳生は顔を上げ、そして絶句した。
 仁王は、座りこんだ柳生を部屋のドアに押し付けて、膝立ちのまま肩を掴んで身を寄せて、泣いていた。柳生を見つめたまま嗚咽もなく、ただタッと涙が頬を流れている。小さな照明に上から照らされて仁王の涙は光を弾いて、その光景に柳生はあっけにとられた。どんどんどん、と心が飛び跳ねる。
「え、仁王くん、あの、ごめんなさい、君を悲しませたかった訳ではないんです。泣かないで」
 嬉しいのか悲しいのか辛いのか苦しいのか、自分でも分からない衝動のまま柳生は口走った。自分が悪いとは欠片も思っていなかったが、気が付けば謝罪の言葉が飛び出した。仁王の流す涙に胸がバクバクしている。泣いて欲しくないのに、仁王が泣くのが嫌なのに、柳生は自分が喜んでいるのを感じた。
「……なんで?」
「はい?」
「なんであんなことばしたとね?オレは、お前ば、居なくなってしまうかと思った」
 仁王の言葉の最後が震えて、掴まれた肩がとても痛かった。その間も柳生の顔に首筋に、仁王の暖かい涙が絶え間なく降りかかる。乱れた息と掴まれた痛みと濡れた感触が仁王の悲しみや恐怖や怒りを柳生に伝えて、柳生はそれが嬉しかった。仁王の涙に心は痛む。けれどそれ以上の嬉しさでいっぱいになる。柳生は仁王に顔を寄せてこぼれ続ける涙を舐めとった。
「ごめんなさい。悲しませたかった訳じゃないけど、私はあなたに分かって欲しかったんです」
 柳生は一度言葉を切って、仁王を見つめる。真っ赤に染まった目元が可哀想で、嬉しかった。仁王は自分が居なくなることがこんなに怖いのだと思うと、柳生は嬉しくてどうにかなりそうだ。止まらない涙にもう一度唇を寄せて柳生は告げる。
「あなたはとても優しいから敵にまで情けを掛けてしまう。相手がどんな人間かも、私みたいな人間かも知れないのに。あなたがとどめも刺さないで敵に背を向けてしまう時、私はいつも心臓が潰れそうになる。別にあなたを信じていない訳じゃないんですよ?それでも、次の瞬間あなたが失われてしまうんじゃないかと思うと指先から冷えていく。なのに、あなたは、変わらず優しいから……」
「柳生」
 軽く微笑んでいるようだった柳生は、言葉を続けるにつれ表情を無くした。背中を見送る瞬間の恐怖を思い出したように体を萎縮させ、仁王の頬に添えられた掌は力なく落ちる。目を空ろにして俯いた柳生の言葉は、彼の痛みをそのまま仁王に伝えるようだった。
 仁王は目を合わせるため柳生の顔に手を掛けて上を向かせ、けれどヌルリとした感触に顔を顰める。指先を確認すれば、それは血だった。仁王はハッと柳生を見つめ直す。そして、恋人の半身が、べっとりと赤い液体に汚れているのを知った。恐怖に曇った不安な目をして他人の血にまみれた柳生。すべて仁王のための、結果だった。仁王は自分の指先を見つめ、そして堪らず柳生を抱きしめた。
 柳生は一瞬ふっと息を詰めるた後、嬉しそうに仁王に頬を摺りよせた。柳生の香りに交じる、血の匂いが仁王の鼻につく。柳生の思いを自分はどれだけ理解していたのだろうかと、仁王は回した腕に一層力を込める。柳生は安心したように体の力を抜いて、呟くように言った。
「敵に優しくする前に、少しくらい、私に優しくしてくれても良いじゃないですか……」
 甘くなじる言葉の響きが仁王の胸を刺す。柳生が仁王に何かを求めるのは初めてだった。本当は言葉の何倍も我慢しているのだと思うと仁王は腕を緩めることも出来なくて、触れ合わせた頬をたどって柳生に口付けた。暖かくて柔らかい感触と湿った吐息がためらいなく仁王を受け入れる。自分の気紛れを許してくれる人の小さな願いが切なかった。
 仁王は柳生の形を確かめるように唇で肌をたどり、衣服で吸いきれなかった返り血の跡を見つける度、丁寧に清めた。柳生に怪我が無いのを念入りに確認していると、心配のし過ぎだと柳生が苦笑したので仁王はもう一度強く抱きしめて、そのまま床に倒れこむ。伝わる柳生の体温に、興奮と後悔が一緒になって仁王を襲う。
「柳生、ごめん。もう一度お前に触れてよかった。お前が死んでしまわんでよかった」
「それは、私の台詞ですよ」
 涙まじりの睦言に柳生はクスッと笑う。けれど仁王の泣き濡れた瞳が可愛くて、そのくせ眼差しはいつもより強くて、言葉と一緒になって柳生の心を舞い上がらせる。
「うん、ごめんなさい」
「謝らないで下さい、あなたを責めたかった訳じゃない」
「もうお前以外の誰にも優しくしたいと思えん。世界でお前だけ笑っとればそれでいいよ」
 祈るように真摯な響きの言葉と口付けが、柳生の言葉と理性を消していく。
 柳生は仁王の背中をぎゅっと抱きしめて、決して手放せない存在のぬくもりをより深く引き込んだ。





(20070108)


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 仁王と柳生にそれぞれ言わせてみたかった台詞を言ってもらいました。次で終わりになります。