盲人のうそ・7





 仁王は柳生に一服盛られていた。枕元に添えられたメモには食事に混ぜたことへの侘びと、副作用はない旨の但し書き、残っているロールキャベツは食べないようにとの注意があった。ちなみに薬を盛ったことへの謝罪は一切無い。ご丁寧なことだと柳生は全裸で頭を掻き毟った。柳生らしい心遣いのお陰で薬で眠った後の吐き気や頭痛は一切なかったが、人生最悪の目覚めに変わりなかった。
 そして憤りのまま本部に駆け込み、上司を訴えた仁王を今、柳はまじまじと見つめる。怒りが激しすぎて言葉もだせない、というのは表現の一種だと理解していた。頬を青ざめさせ、目は見開き、歯を食い縛り、握りこんだ拳が小刻みに震えているのを、柳はテレビを見るように眺めた。人の感情はここまで体を支配するはものなのかと感嘆すらしてしまう。人はここまで激するものなのかと、人はここまで他人を求めるのかと。
 柳と同じように仁王を眺めていた幸村は、けれど震える拳をみてクスリと笑う。仁王はいっそう顔を強張らせ、そして身を翻した。
「どこにいくの」
 一目散にドアに向う背中を幸村が鋭く制止する。彼の柔らかな声には逆らうことを許さない深みがあった。足を取られたように仁王が止まり顔だけが幸村を振り返る。いつものどこかふざけた、腹の底を見せない、余裕を残した仁王とは全く別人の顔だ。
「おんし、分かってて柳生ばいかせたとね」
「何のこと?」
 幸村は笑顔でそらっとぼける。
「おんしの見過ごすはずなかろう!万が一にも!!」
「へぇ、仁王がそんなにオレを買ってくれてるなんて知らなかった。嬉しいな」
「幸村!!!!!」
「やだな、怒鳴らないでよ。何怒ってるの?」
 部屋にわん、と響いた仁王の叫びを追って、幸村が明るく言い放つ。爽快でよく通る、明るい、明るい声。それは張り詰めた仁王の精神の糸を切った。仁王は一歩で素早く距離を詰め、部屋の中央に大きく据えられた机に飛び上がり卓上のパソコンを蹴りのけて、その向こうの幸村の整った笑顔に思い切り拳を振りかぶる。何かを考えての行動ではない。ただ、この目標を沈めなければ柳生が死ぬのだと仁王の直感は判断して、そのために体を動かした。拳を人の骨に埋めるミシリとした手応えを感じたと思った瞬間、実際は一気に喉が絞まって仁王は背中から羽交い絞めにされた。骨の太い腕が後ろから首に絡まり、机の上の仁王を半ば宙吊りにするように持ち上げていた。ゲ、ともグ、ともつかない音が仁王の喉から漏れる。この馬鹿者が、と真田が耳元で吐き捨てた。仁王はがむしゃらな抵抗心のまま、塞がれた喉から無理矢理怒鳴る。
「お前ら、柳生が死んでもいいのか!あいつは戦う人間じゃないんだぞ!!!」
『あなたも知ればいいんです』
 スピーカーから仁王の、否柳生の低い声が響いた。仁王の擦れた声はかき消される。インカム越しの声は足取りに合わせて弾みながら、それでも強く言い切った。
『ただ待っていることがどれ程辛いか。あなたは敵にまで情けを掛けて自分ばかり傷つく。あなたの苦痛を直に聴く私がどれだけ辛いかなんて、考えてもくれやしない。……だから、私があなたに教えてあげるんです』
 柳生らしからぬ冷たい声に、室内はしんと静まる。仁王は真田に抑えられたまま、大きく目を見開いた。沈黙が落ち、柳生が敵の施設内を駆け抜ける微かな物音のみが続く。ほんの一瞬柳生の足が止まり、再び走りだした時、ちょっと待っていて下さいね、口調をやわらげて柳生が囁いた。本部に優しく響いたそれは、仁王ひとりに向けられていた。そして響く連続した射撃音。
『みっつけたぁ!立海!!!』



 青学は昨日仁王と対峙していた。取り逃した汚名を雪ぎたいためだろう、今日は初手から全開に飛ばしていた。奇妙な飛び道具と素早さを活かした肉弾戦の連携が菊丸のスタイルだ。最初の射撃は威嚇のようなものだったのだろう。基本的に接近戦はやらない主義の柳生とはあまり相性の良くない相手だった。久々だっていうのについてないですね、と内心呟いて、柳生は菊丸の胸を蹴り上げ一旦距離を取る。菊丸はクルリと回転して着地するや否や、跳ね上がるように柳生に向ってきた。柳生はナイフを構える。
「お前、昨日の奴と違う!絶対違う!!」
「へぇ?」
 菊丸の蹴りが柳生の刃物を落とそうと手首に向けられるのを、左手で防いでナイフを振り下ろす。菊丸はとっさに体を反らしたが、刃は皮膚を薄く裂いていった。糸のように細く血が飛ぶ。
「何のちがうって?」
「お前、殺すことしか考えてない」
「昨日のオレは?」
「もっと余裕があったよ」
「ご名答」
 柳生はにやりと笑う。その顔に菊丸が叩き込んだ拳を防ぎながら、背後から飛んできた菊丸の刃物を掴んで使い手の首筋めがけて振り下ろした。菊丸が身を屈めてそれを避け、反動で攻撃しようとかすかに身を右に反らせた瞬間、柳生の左手からパンと気の抜けた音がした。小さな仕込み銃は菊丸の左目を撃ち抜き、そのまま暗い通路に血の赤と脳の白を撒き散らす。
「なかなか見る目はおありのようでしたが、話しているからって気を抜いて良いもんじゃないですよ。迂闊でしたね」
 自分のほうにグラリと崩れ落ちる菊丸だった体を支えて柳生は呟く。そのまま菊丸の服を漁り、インナーのポケットから小さなフラッシュメモリーを探り当てる。柳生は無感動にそれを回収しながら戦闘で若干ずれたイヤホンの位置を直す。
「柳生です。幸村くん聞いていらっしゃいます?」
『うん聞いてるよ、お疲れ様』
「菊丸は終わりました。メモリーは回収しましたけど、遺体どうします?他のメモリーも回収しますか?」
『いや、欲張り過ぎてもしょうがないしね。念のため服だけ剥いできて?』
『柳生!そんなんどーでもいいから現場離れろ、すぐ他の奴らの来よると!!』
 淡々とした遣り取りに仁王の必死の声が交じる。落ち着いた両者のやりとりに挟まれて、その声は酷く軽く浮いた。
「他の方がいらしたら荷物が増えて面倒かもしれませんね」
『柳生!!!』
 宥めるような柳生の同意に、自分が欲しかったのはそんなものではないと仁王が名前を叫ぶ。
「菊丸の着衣を確保して帰還します」
『了解。待ってるね』
『柳生、いいから早く!柳生!!』
 ごく事務的に報告だけすると、柳生はもう繰り返し呼ばれる自分の名前に答えなかった。衣擦れの音や小さな水音だけが断片的に届く。どさ、と鈍い音が遠くに聞こえて、柳生が遺体を放りだしたのだと本部内の誰もが分かった。仁王はその音に一瞬目を見開くと、再び柳生、と繰り返す。室内は、再び走り出した柳生の微かな足音と、柳生の名前を呼び続ける仁王の声だけが痛いくらいに響いていた。





(20061009)


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 ちょっとだけグロいです。