盲人のうそ・6





 たた、たた、とリズムを踏んで近づいてきた足音が、ドアの前で止まる。間を置かずに開いた扉の向こうからは、チェシャ猫のような笑顔が覗いた。おはよう、と短く気楽な沙汰の後、浮かれた歩調のまま部屋の真ん中に滑り込む。陽気で軽快な様子は、けれど、隙のない装備に固められていた。腰に巻かれたホルスターには四五口径のダブルアクション・リヴォルバー。持ち主の歳に似合わない、渋い光り方をしていた。幸村は、その姿を上から下までじっくりと検分する。そして鮮やかに笑った。まるで花が咲いたような笑顔だが、綺麗なだけで収まってくれないの室内の誰もが知っている。仁王は笑顔に続く言葉に予想しながら、早々に首を竦めた。幸村は卓上のパソコンから目を放さないまま、いよいよ美しい笑顔を浮かべる。
「おはようとは、言い難いよね。日本語って本当に難しいね、仁王。大きな顔して遅刻してきた相手にどんな挨拶をすればいいのか、オレには分からないや。仁王なら分かるの?」
「普通に怒ればいいっとよ」
「うん、でも、オレがわざわざ怒ってあげても改善が無かったら虚しいし。大丈夫かな?」
「さあ。保証ば出来んね」
「やっぱり難しいねえ」
 どうしようかなあ、と笑顔のまま困り果てる幸村に、同じく仁王も笑顔で大変っとね、と同調する。この程度の小言を気にするようなタイプが立海でやっていくのは難しかったし、気にしていたら遅刻などしないだろう。そもそも仁王にとって今日の出勤時間が遅刻だという意識はなかった。作戦のあらましは昨日おさらいしていた。あとは予定時刻に敵陣を襲い予定通りの戦果を上げ予定時刻に撤収すること、それだけが自分の仕事だと仁王は考えていた。だからこそ嫌味のような小言を言われようと、いっこうに気にしていなかった。結果、毎度のように幸村が笑顔で嫌味を送り、仁王も笑顔でそれを返す。お互い同士は平然としたやり取りは、けれど周りにしてみれば堪ったものではない。ブン太が気まずそうに部屋を出、真田が眉間の皺を深くし、ジャッカルが黒い肌を青ざめさせたのを見て、柳はため息と共に二人の間に割り込んだ。
「ところで。柳生はどうしたんだ」
「ああ、ちっと体調崩してな。起きれんようだったから、置いてきた。誰ぞヘリの操縦ば出来るの、都合つかんと?」
「そういうことはもっと早くに言え。……でもまあ、問題ない。赤也にやらせる。いいな、赤也」
 隅でパソコンに向っていた赤也が椅子を回して振り返る。小学生のように高く手を上げた。
「はーい」
「よろしく頼むわ」
 にっと笑った仁王に赤也がビッと親指を立て、柳が頷いた。詳細を伝えるため、柳が赤也を手招きし、仁王もするりと場を離れようとする。肝心なところは不問にしたまま話を終わりにしようとした時、ようやく眉間を緩めた真田が口を挟んだ。
「作戦決行中だというのに体調を崩すなど、柳生の奴、たるんどる」
 ふんっ、と勢いよく言い切った真田に、返事はなかった。代わりに室内は微妙な沈黙に占められる。チラリと視線を交わした柳と赤也がことさら大きな声で打ち合わせを始めようとし、仁王はドアに向けた足を不自然でない程度に早めた。ジャッカルの顔が青黒くなる。幸村が言った。
「やだなあ、真田。この場合たるんでいるのは仁王だよ。……だよね、仁王?」
 にっこり。そんな音が聞こえてきそうな笑顔が仁王に向けられる。幸村は部屋の中心に居るものだから、それは全員が見てしまった。赤也は顔を固まらせながらも命知らずに、メデューサ、と呟く。けれどチラリと幸村の視線が赤也を捕らえた瞬間、後悔した。
 メデューサの微笑みを真正面から向けられて、流石の仁王も頬を引きつらせる。
「いやー……ま、何だ、返り血浴びた後はどうしてもこう」
「こう?」
「男のサガっつーか……」
 幸村に先を促されて、仁王の声は尻すぼみに消えていった。刺々しい沈黙。
「それは男っていうか、動物だね」
 メデューサの柔らかな声が、おごそかに仁王に止めを刺す。仲間の前で動物認定された仁王は、笑った形のまま顔を固まらせた。結果的に仁王を窮地に追い込むきっかけを作ってしまった柳は、わずかな罪悪感を込め再び深いため息をつく。そして呟いた。
「柳生も可哀想な奴だ」
 幸村に止めを刺されたはずの仁王が、柳の感想にちらっとだけ笑った。懲りない男だった。




 そして30歳の仔猫の毛布を片手にした仁王を乗せて、赤也は闇色のヘリコプターを飛び立たせた。予定通りに仁王は現場に到着し、戦闘を開始する。いつもなら時折聞こえてくる仁王の軽口が、今夜ばかりは響かない。それが幸村の微笑みの後遺症であるのを、本部に残る後方支援組の誰もが知っていた。白々しく順調な流れを若干気まずく、それでも職務上張り詰めて彼らは聴く。各々がイヤホンとディスプレイに向かい、室内は静まり返っていた。けれど静寂は破られる。ダカンッ!、と荒々しい騒音。扉の軋み、荒い息遣い、無造作な足音。
「幸村!」
「……おはよう、とは言い難い時間だよね」
 突然開いた扉の向こう、噛み付きそうに荒立った相手に幸村はのんびり笑いかけた。今日は、なんてのは気持ち悪くて言いたくないし、と一人で頭を傾げる。
「ここは、やあ、くらいが妥当かな。仁王はどう思う?」
 まさに今、イヤホン越しに状況を伝えてきている相手が、鬼のように顔を歪ませて目の前に現れた。室内が一斉に仁王を振り向り、そして目を見開く。けれど幸村だけは、何の不思議も無いように、綺麗な笑顔で彼に呼びかける。その間も『仁王』は淡々と作戦を続けているのを、目と耳に機械は知らせて来ていた。目の前の仁王が叫ぶ。
「柳生は!?どこに居るんだ!!」
「家で寝てるって、さっきお前が言ってたけど」
「オレは今ここに来た」
「じゃあ柳生だ」
 明日は晴れだと言うのと同じ口調で幸村が言った。
「じゃあ今あっちに居るのが柳生だ。参ったな、全然分からなかったよ」
 のんびりした調子は崩さないまま、幸村が微笑む。室内は騒然とする。
 そして仁王は、血の気の引いた顔で、幸村を凝視した。





(20060701)


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