盲人のうそ・5





 柳生の手がベットサイドの救急箱に伸ばされた時、仁王の手は無防備な体に伸びた。そして柳生が片手で器用にエタノールと化膿止めと包帯を取り出す間に、仁王は必要な分だけの筋肉を付けた体を晒していく。一番派手なわき腹の怪我の処置のため柳生が屈みこめば、仁王は時々痛みに顔をしかめながらも目の前の背中に唇を這わせた。柳生の背が小さく揺れる。唇は離さないまま、仁王は笑った。
「怒らんと?」
「私の邪魔さえなさらなければ、お好きにどうぞ」
「カッコ良いのー」
 惚れ直す、と囁いて、仁王は耳の裏に口付ける。鼓膜の近くで鳴った水音と濡れた刺激に、柳生はうっとうしげに眉を顰めた。けれど手元は敏感に引きつる。傾けていたエタノールがボタリと零れ、柳生は肘まで水より粘着質に光る液体に塗れた。その扇情的な光景に仁王は含み笑いを浮かべる。好色な気配を察して柳生が仁王を睨み上げた。軽い怒りを込めた視線が、けれど濡れた手と同じくらい仁王を興奮させる。仁王は濡れた目と口と手が照明を弾くのを眩しく見た。
「邪魔をしなければ、と言ったでしょう」
「邪魔じゃない。愛情表現」
 仁王は恋人の苛立ちを受け流すように、好いとーよ、と囁く。そして濡れた片手を引き取って、恭しいように口付けた。蒸発していくエタノールを受け止めるように指先を舐める。神経質に細く長い柳生の指。優秀なオペレーターらしく腹の皮を硬くしているそれを、まるで解きほぐしたい風に仁王は舌先を乗せた。
 好き勝手に、それでいて酷く慎重に、暖かい感触が肌の上を這い回る。その丁寧な動きが柳生をふっと緩ませる。安心と嬉しさと気持ち良さに、じわり、と涙が滲んで柳生の視界が乱れる。くら、と頭が揺れる感覚と同時に肩に手が回る。そのまま押し倒そうとする鮮やかな手際に、流されてしまいたくもなる。それでも柳生は片手を伸ばした。
「……っ、たっ!」
 まだ血の止まらない傷口に、指の腹を擦り付ける。仁王の体がびくりと竦んで、低い呻きを漏らした。その隙に柳生は自分の指を取り返して、かわりに鮮やかな赤に染まったもう片方を仁王の唇に擦った。苦い鉄の味が口内に広がり、生臭さが鼻につく。流れを邪魔されたのと痛いのと不快なの、そっくり合わさって仁王は情けなく眉を下げた。
「やーぎゅう……」
「嫌でしょう?ですからもうちょっと、邪魔しないで待っていて下さい」
 さっき仁王が柳生をいなした仕返しのようなやり口だった。半ば本気で拗ねかかる仁王に、柳生はふわりと笑い掛けた。何の裏も企みも無い純粋な笑顔。その笑顔を向けられて、そして注意深い手付きで傷口の処置をされてしまえば、仁王は落ち着かない気持ちを引っ込めるしか無かった。柳生はそんなに可愛い性質ではないと分かっていても、仁王に包帯を巻いていく真剣な横顔を見れば、もうどうしようもない。これが惚れた弱味だろうかと少しだけ不貞腐れながら、仁王は柳生に従うべく、体の力を抜いた。
 柳生は手際良く手当てする合間に、大人しくなった恋人の顔を伺った――不承不承が透かしみえる、表情。仁王らしからぬ他愛なさが可愛くて、柳生は笑顔を抑えるのに苦労した。
「はい、終わりです。ごはんにしましょう」
「…………。……食欲より、別のところば満たしたいとですが」
 なんとか手当てを終えた柳生がベットを降りる。何か言い掛けた仁王は、けれど反論しても無駄だと思ったのか言葉を引っ込めた。ぼそぼそとした独り言だけが柳生の耳に届いて、思わず顔をほころばせる。甘やかしたくなる衝動のまま、柳生は振り返った。
「明日もあるんですから、食事はきちんととって下さい」
 仁王は不貞腐れて柳生を見ないまま、コクリと頷く。
「さっき続きはその後にしましょう」
 仁王はもう一度コクリと頷いて、頷いた後、グルッと勢い良く柳生に振り返る。けれど仁王が言葉を反芻した短い間に柳生はもう台所に滑り込んでいた。堪えきれない含み笑いを浮かべながら、そのくせ何も気づいていないように鍋を覗き込んでいる。
「珍しかことのあるもんね……」
「やめても良いんですよ?」
 カウンターの向こうに納まった柳生を見つめながら、仁王は呆然と呟く。柳生はちらりと視線を上げて牽制する。仁王はそれに、現金な笑顔を浮かべて言った。
「まさか!メシもお前さんも美味しく頂かせてもらいますと」







「……あ、や……ぁ。ちょっと、だけ、待って下さい」
「柳生?」
 柳生は重ねた手を一瞬、強く握った。そして繋がりを解こうとする仁王を引き止める。トレードマークの眼鏡を取られて髪も乱れた、まったく柳生らしくない、けれどこれ以上ないくらい本当の柳生を仁王が見下ろした。もうちょっと、と整わない息で繰り返す表情はどこか夢見るような頼りなさで、仁王は心も体もズキリと刺激される。
「もうちょっとだけ、このまま……」
 お願い、と続けようとする唇を仁王が奪う。達したばかりで反応の追いつかない柳生の口内を、追い詰めるように口付けた。咎めるように柳生の薄い唇を噛む。
「そんなこと言っちゃって。よかとね?またしとうなる……」
 上から覆いかぶさるように、仁王は柳生を抱きしめた。湿った肌が隙間なく重なる感覚に、仁王の体は再び熱くなる。柳生はそれを感じて小さく笑った。そして同じ気持ちだと告げる代わりに耳元に口付け、背中に腕を回す。ぎゅっと強く抱きつけば、それが合図になった。急かされるようにお互いの形を手と唇で辿り、深く繋がって快感と体温を分け合う。ぽたりと仁王の汗が落ちるのを肌に感じながら、柳生は呟いた。
「時々、ずっとこのままでいたいって、思うことがありますよ」
「ん?オレもよ?柳生の中、サイコー……」
 途切れ途切れの言葉を聞き取った仁王は、嬉しそうに柳生の首筋に顔を擦り付ける。仁王はもうすっかり柳生を知っていた。その慣れた手際に翻弄されながら、けれど柳生は笑ってしまう。
「そういうことじゃなくて……ああ、でも。本当はそういうことかも知れません」
「何、ね?」
 苦しい息の下で、それでも言葉を続けようとする柳生の顔を、仁王が覗き込んだ。長めの髪が解かれて、汗で肌に張り付いている。柳生はそれを丁寧に払いながら仁王の顔を両手で包んだ。時に他人が見間違えるほど良く似た顔立ちは、けれど自分とは全く違う表情を作る。我侭でそのくせ優しい、どうしようもなく愛しい人だ。柳生は軽く唇を重ねて言った。
「あなたを包んで、守って、ずっと自分だけのものにしたいってことです」





(20060528)


please wait NEXT


 お部屋でいちゃこら編第三話でした。