盲人のうそ・4





 鍋に水を張って火にかけて、冷凍庫から作り置きのタネを取り出して、野菜を洗い皮を向いて切って沸騰しかかった鍋にブイヨンと一緒に放り込む。パンを切ってバターを塗ってトースターに入れる。食器を用意して、野菜の煮えた鍋に解けたタネを放り込んで、火を弱めて蓋をして。
 働く手はこの作業にすっかり慣れて、一度も止まることなく滑らかに動く。迷いのない濡れた指先は、男のものであっても美しく見えた。生き物全てにが必要とする、明日の生命を繋ぐ作業だ。その必要不可欠な一切を相棒であり恋人である柳生に頼っている仁王には、この一連の作業が何か不可思議な魔法のように思える時がある。今日は簡単に入浴を済ませて台所を覗いた瞬間明かりを弾いた柳生の爪先に目を奪われて、仁王は思わずその手を掴んだ。
「え?」
 コンロのつまみを調整したその手を取られて柳生は声を上げたが、湿った手に手を捕まえられて後ろに引っ張られる。自然、背中を風呂上りの火照った体に預ける形になったが、柳生は抗わなかった。抗う必要もなかった。ポタリと首筋に水滴が落ちるのを感じる。焦るでもなく視線を向ければ、顔のすぐ近くで柳生が笑っていた。後ろに傾いだ柳生を胸で受け止めて、目の前に晒された首筋に指を這わす。柔らかい髪をかきあげ自分が落とした水滴を舐め取った。そしてそのまま口付けて、わざと大きな音をたてるのに、柳生は思わず笑ってしまう。
「足音を忍ばせないで下さい、まったく」
 ふざけるように首筋をたどる指と唇は、子供の悪戯とも性的な誘いともつかない。判断を柳生にゆだねるのが仁王の遣り方で、それはずるくも優しくもあったが、仁王らしくて柳生は好きだった。今はまだ誘いに乗る訳にはいかなかったが、肩の力を抜いてもう少し体重を仁王に預ける。体を拭ったままシャツは着ないままらしい仁王の体温をもっとはっきり感じたかった。当然それを受け止めるはずの仁王は、けれど、柳生の肩にするりと手を添えて支えると自分の体を遠ざけた。
 両肩を包んだ手のひらから感じる暖かさに安心するのと同時に感じた違和感に、柳生は仁王を振り返る。肩に置かれた手の上に手を重ねてじっと目を見つめれば、仁王は不思議そうに笑う。けれどその笑顔のどこかに取り繕う色があるのを柳生は見逃さなかった。裸の上半身を確かめれば理由は簡単に分かった。柳生は痛ましさに目を伏せたが、それは一瞬のことで、すぐに仁王に微笑んだ。
「……食事の前に傷の手当てを済ませてしまいましょう。血が、止まっていませんね」
「風呂ば入って血の増えたと。問題ないっと」
「駄目です」
 少しばつの悪い仁王がいつも以上にふざけようとするのを、柳生はきゅっと手を握って押し留める。仁王は目を大きくしておどけて見せたが、柳生は穏やかながらも全く否定した。意志の強さはお互い負けていない分、彼らがぶつかる時はやっかいだ。尤もそれすらも二人にとっては当たり前のコミュニケーションに過ぎないのだが。
「柳生のご飯がイイと」
「まだ出来ていません」
「じゃあ柳生がイイ」
「はい?て、わ!」
 ふざけた言葉を聞いたと思った時、柳生の天地は逆転した。ぐるりと回った視界に一瞬状況が認識出来ない。横腹に直に手のひらの熱を感じて仁王の腕が腹に回っているのを理解して、次いで肩に担がれたのだと分かった。仁王と柳生の体格はほぼ同じでお互いに十分鍛えている。片腕で相手を持ち上げたところで何の支障があるのではなかったけれど、何と言っても仁王は未だ血の止まらない怪我人だ。柳生は思わず声を荒げる。
「仁王君!あなた、怪我が!」
「じゃあ治療しながらでも構わんと」
「……しながらって、あなた」
 能天気な発言に思わず柳生は脱力する――本当は、柳生も分かっていた。幸村が言った通り、仁王の怪我は心配をするほどのものでもないのだ。それは仁王自身も分かっているし、だからこんなに適当に振舞っている。大げさに騒ぎ立てているのは柳生だけで、それも殆ど無用の心配だった。柳生自身分かっているのだ。けれど、どれだけ軽症でも、仁王が傷を負った、そのことが問題だった。
 仁王が心配というよりも、要は柳生自身が安心したいだけなのを、柳生は理解していたし、仁王もそれは知っていた。柳生が空回りな位に自分を心配して煩く言い立てるのが可愛くて嬉しかったから、実は、怪我も嫌いでは無いのだ。柳生には決して言えないことだったが。
 恋人を諌める努力を放棄して、大人しく荷物になった柳生を、仁王はそっとベットに下ろした。満面の笑みを浮かべる仁王に、柳生は釈然としない溜め息をひとつ吐いた後、呆れたような可笑しいような笑顔を浮かべる。そして重なってくる体に倒されるまま、裸の肩に手を添えた。




(20060409)


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 お部屋でいちゃこら編第二話。寸止めですいません。