盲人のうそ・3





「お疲れ様です。何か食べるでしょう?軽いものを作りますから先にシャワーを使ってしまって下さい。上がったら怪我の処置をしましょう」
 玄関から続く細い廊下を抜けて室内に入るなり、柳生はにこりと笑って言った。作戦中の冷やかな、あるいは興奮した、戦いに狂った表情とは全く別物の表情に、仁王は釣られて笑顔になる。
 戦闘に没頭するメカフェチな柳生も仁王は好きだった。いつも控えめな風情の柳生が自身の技能を誇る瞬間の目の輝き方は、本当に綺麗だ。けれどこうして、日常の中で他愛なく見せる笑顔が柳生に一番似合うと仁王は思う。優しく甘やかす言葉と一番好きな笑顔が合わさって、仁王はだらしなく緩んだ。
「えー、さっきミーティング中にやったと。大丈夫よ」
「あんな応急処置じゃ駄目です。ご自分の体を大事にして貰わないと、困ります」
 柳生はさっさと台所に入り、エプロンを掛けながら仁王と話す。その口調はまるできかない子供をあやす母親だ。軽く目を伏せ微笑む姿も慈愛そのもので、仁王は愛しく思うのと同時に少しばかり悔しくなる。対等なパートナーのはずなのに、オレばかり柳生が必要みたいだと。そして頭をもたげる悪戯心。ごろりとベットに寝転がった姿勢のまま、カウンター越しの柳生を見上げて笑う。
「――がこま―と?」
「え?」
 台所の水音に紛れて、仁王の声は断片的にしか届かない。柳生は顔を上げて蛇口を閉じた。キュッと高い音が小さな部屋に響く。仁王はだらしなく寛いだまま、柳生を見ていた。いつも何処か底の知れない光り方をする目が、本当は子供のように単純なことを知っているのは少数だ。その熱心でまっすぐな目に捕まっていることに気付いて、少数のひとりの柳生はふっと身を硬くした。不快なのではない。むしろ逆、気まぐれな視線が自分に注ぐ強い興味が嬉しくて、ただ気恥ずかしくて、全身の血の量が増えたような感覚に眩暈すらしそうだ、と柳生は細く息をついた。
 未だ慣れない風情の柳生をじっと見つめながら、仁王は笑みを深くする。そしてとどめのように、もう一度言葉を繰り返した。
「オレが駄目になって困るんは、誰と?」
「そんなのっ……」
 ワンルームの真ん中にいる仁王と、カウンターを隔てた台所の柳生の間は3メートルほど。遠くはないが近くもない。けれど柳生は至近距離から顔を覗き込まれた気分だった。あるいは遠慮のない目で覗き込まれたのは心だったかもしれない。思わず口を衝いた言葉の、その先は辛うじて飲み込んだ柳生だったが、その努力は無駄だった。
「そんなの、『私に決まっている』やろう?」
 宙に浮いた柳生の言葉を引き取って、仁王は頬を吊り上げた。にやにやの笑顔に柳生は体中が熱くなる。何で分かったのか、とか、自分で言って恥ずかしくなにのか、とか、得意気な笑顔がやっぱり好きだ、とか、ちぐはぐな感情が頭の中に散った。流しの前で固まった恋人が可愛くて仕方なくて、けれど彼が落ち着いた後の冷やかな仕返しも熟知しているので、仁王は軽口を叩くと素早く身を翻して風呂場に逃げこんだ。そして含み笑いの余韻だけが部屋に残る。忙しない衣擦れ、それと鼻歌がBGMのようにだ台所に流れ込んできていた。
 柳生は太い息をついて、脱力したように食器棚に寄りかかる。
「あーもう……」
 ガクリと仰のいて両手で顔を覆う。品行方正な印象の強い柳生には珍しく、ひどくのろのろと怠惰な仕草だった。照明を晒された喉元がゆっくりと影の形を変えながら、低く呻くような声が、ついで短く鋭い笑い声が発せられる。その口元は笑みを作っていたが何故だか酷く苦しげだ。両手が隠した目元にはわずかに涙が、眉根には深い皺があった。堪えきれないように声が漏れる。
「…………こんなの……何時まで」
 誰に聞かせる訳でもなかった言葉は断片的で、聞いた者が居たところで意味の汲み取れるはずなかったが、柳生の深い自嘲と苦悩だけは誰もが理解しただろう。そして、呟きの詳細を知ったなら、柳生と同じように嬉しいのもと悲しいのともつかな表情を浮かべる他はない。


 ――こんな幸せの形が、いったい何時まで続くというのか。


 穏やかな遣り取りの最中まで胸を痛める自分は、命を交える日常に身をおく覚悟が甘すぎるのかもしれないと、柳生は思う。けれど想う心がどうなるものでもなかった。自嘲の笑みが一層深くなる。上向いた姿は天に祈るようにも見えて、切なく、悲壮だった。




(20060409)


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 シーンの都合上短めです。3話〜5話くらいまでお部屋でいちゃこら編になります。