星降る夜は君とふたりで/1






 通年、大晦日の柳生家は忙しい。仕事柄休みの取りにくい父を除いた家族全員が午前中からバタバタを動き回り、新年の準備に明け暮れる。柳生も勿論例外ではない。祖父を手伝って屋根裏の煤を払ったり、ガレージの不要物を解体してゴミに出せる大きさに纏めたり、と忙しく動き回り、ようやくゆっくりダイニングに腰を落ち着けたのは三時を回ったころだった――しかも休んでいる訳ではなく、台所で母と妹が製作中の御節料理の下ごしらえをさせられているのだ。今やっているのはサヤエンドウの筋取りで、テーブルの上にはデンとこんにゃくの固まりが置かれている。短冊に切って真ん中に筋を入れてひっくり返して捻れを作る、単純かつ面倒くさい作業が柳生を待っていた。毎年恒例の目まぐるしさに、柳生は思わずため息をつく。柳生には、母親に言わなければいけないことがあるというのに、この忙しさに紛れて言い出しかねていた。
 母の隣に妹さえいなければ今が絶好のチャンスなのに、と柳生は、台所に母親と並んで立っている妹の背中を恨みがましく見てしまう。その視線を感じ取ったのか、彼女はくるりと振り向いた。
「あーホラ、比呂くん、手がとまってるよー」
 さぼっちゃダメじゃん、と、今年中学に入った二歳年下の妹は何とも生意気に柳生を注意する。もともと妹の方が活発で社交的であるのに対し、柳生はどちらかといえば内向的である上、去年ようやく成長期に入った柳生が急激に身長を伸ばすまで、長いこと二人は同等の体格をしていた。むしろ妹の方が丈夫だったかもしれない。そのためだろうか哀しいことに、柳生は今も“兄”扱いはされていない。一度くらいお兄ちゃんて呼んでみろ、と腹の内でぼやきつつ、柳生は包丁を握る妹の指を見咎めた。
「さぼってなどいませんよ、言い掛かりです。むしろ貴方のほうがちゃんと働けているのか疑問ですね。なんですか、その人先指の絆創膏。無理なことは無理と認めたほうが貴方にも周りにも有益です」
「……うっるさいなあ、比呂くんは。人生何事も練習でしょ」
「練習ならば忙しい今、わざわざやることはないでしょう。貴方のクローゼット、本当にぐちゃぐちゃなんですし……アレじゃあ福袋を買ったって、仕舞う場所もない」
「見たの!?サイッテー!」
「そういうことは自分で洋服片付けられるようになってから言いなさいね」
 兄妹の会話が口論になりかけた時、鶴の一声とばかりに、ガスコンロの前に立つ母親が口を開く。しかし一言を言ったきり振り返りることもない母親の背中に、ピタリと黙った二人には嫌な沈黙が落ちる。なんとなく横目でお互いを見合わせた後、顔をしかめた妹が折れたとばかりに包丁を流しに置いた。ゴツ、という音が妙に響く。
「あたし、自分の部屋片付けてくる」
「がんばってらっしゃい」
 ダダダ、と大きな足音をたてて二階への階段を駆け上った妹が祖父の小言を食らっているのを遠くに聞きながら、ダイニングには柳生と母のみが残される。故意に作った訳ではないが、柳生が母親に今夜の外出の許可を願うのに絶好のチャンスだった。今言わなくては、と焦るものの、柳生はどう言ったものか迷って、なかなか口火を切られない。機械的にサヤから筋を取り続けていた手元のザルには、あともう少ししか緑の房は残っていなかった。柳生は急いでそれらも片付けてしまうと席を立ち、クワイを煮る母親の隣に立った。
「これ、終わりました」
「有難う」
「あの、お母さん」
「何?」
「今夜、ちょっと出掛けるつもりなので僕の分のお蕎麦、いりませんから」
「あら」
 流しのディスポーザーに取った筋を落としながら努めてさりげなく切り出した柳生に、母は小さく笑う。しかし反応は割合薄く、コンロから視線を逸らそうとはしない。柳生はゴクリと息を飲んで母の横顔を伺った。物心ついた頃からずっと、大晦日の夜は家族揃って初詣だ。真夜中に出歩く興奮や日頃忙しい父と交わす他愛ない言葉、神社の行列に並びながら眺める篝火の美しさ、振る舞われた甘酒をすすりながら家に帰る道程。そんなものが気に入っていて、家族揃っての初詣は柳生も結構お気に入りの年中行事だった。それを今回初めて抜ける予定で。別に悪いことはしていないのに、柳生は妙にドキドキした。
「お友達と一緒?」
「はい、部活の」
「何時ごろ出るのかしら」
「九時半過ぎのつもりです」
「昼前には戻るわよね?」
「勿論。朝には戻るつもりです」
「あら、そんなに急いじゃ相手のコにも悪いわよ。ゆっくりしてらっしゃい。何にしても気をつけてね」
「はい」
 思っていたよりずっとアッサリ得た母の許可に、柳生は内心驚きながら空いたザルを洗う。ついでに流しに溜まっていた洗い物もあらかた片付けてしまうと、出掛けるのなら今のうちにお風呂に入ってしまいなさい、と台所を追い立てられた。母は笑っているのに少し不機嫌な様子で、柳生は首を傾げながら風呂場に向かった。もしやと思って服を脱ぐ前に湯船を覗いて見れば、浴槽はからっぽのまま洗われるのを待っていた。年中行事を欠席する長男に課せられたささやかなノルマらしい。意外に子供っぽい母の嫌がらせに、柳生はむしろほっとして笑った。自分が好きだった初詣の行事を抜けることに一人抱いていた後ろめたさを、ようやく非難して貰った感じだ。
 せいぜい綺麗にしてみせましょう、と、柳生は掃除用のスポンジを手に取った。

 待ち合わせは午後十時三十分、学校最寄の駅の改札口。
 なんとなく十分前に到着してしまうのが柳生ならば、待ち合わせの相手は時間ジャストに来る人だった。いつもどおり早めに待ち合わせ場所に現れた柳生は、待ち合わせ相手に到着を知らせるメールを打ってからトンと背中を柱に預ける。住宅街であるからだろうか、大晦日の駅には人気がなく、ひっそりと静まりかえっていた。
 紅白の二部が始まる前辺りから、ゴソゴソ出掛ける準備を整えはじめた柳生を見咎めたのはやっと帰ってきた父だった。いつの間に母から聞いたのか、父は着替えもしない内に「軍資金だ」といって福沢諭吉を二人ほど、柳生によこした。その顔は妙にニヤニヤと歪んでいて、いぶかしみながらも礼を言おうとした柳生の肩を、父はガッと組む。
「ちょっと早い気もするが、お父さんは応援するぞ。上手くやれよ!」
 耳元でヒソヒソと内緒話のように囁かれた言葉に、柳生は両親の甚だしい勘違いに気付き、驚くのを通り越して呆れた。しかもトーンを下げた父の声は、合間のニュースを漫然と眺めていた妹の興味をひいてしまって、帽子にマフラーという完全防備の柳生に彼女は声を上げた。
「比呂くん、デート!?いつのまに彼女なんて作ったのよアタシ知らないよ!」
「なんで貴方に知らせる必要があるんですか!」
「あ!!デートの方は否定しないのね!!!」
「いーじゃないかー大晦日にデート。お父さんは羨ましいよ全く」
「どんな人!?年上?年下?美人?紹介してよー見たーいー」
「………………行って来ます」
 思い返しても恥ずかしい有様だが、帰った時を思うとさらに恥ずかしい。父と妹の全てを知ったような笑顔に迎えられるのかと思うといっそこのまま何処かに逃げてしまいたくなっって、深くため息がもれた。
「お前さん何を色っぽくため息ついとうと?」
「!!」
 全く無防備でいたところに突然、首筋に生暖かい息が掛かる。柳生はびくう、と大きく背を震わせて反射的に振り返った。同時に息を掛けられた場所に手をやって、ご丁寧にもマフラーが下げられていることを確認した。こんな悪ふざけを仕掛けてくる相手など、柳生には精々ひとりか二人。その内ひとりは柳生が寒い中わざわざ待っている相手だ。性質の悪いいたずらの主が誰かは、考えなくても分かっていた。
「仁王くん」
「はいよ、おはようさん。相変わらず早かとね、寒いやろや」
「今日はそれ程寒くもないですから大丈夫です。こんばんは。まったくいつも、悪ふざけがお好きですね」
「マフラーばしとうのが悪いんよ、折角のうなじが隠れんけん。白うて細うて綺麗とに、もったいないやろや?」
 仁王は噛んで含めるように言う。自分の首に当てていた柳生の手をとって、手袋ごしに唇を押し当てるのに柳生はギョッとした。慌ててあたりを見回して、相変わらず周囲に人気はなくてホッとするのを、仁王は面白そうに眺めている。柳生も呆れたように微笑んだ。
「そんなことを思うのは、貴方くらいなものですよ。貴方こそ、ご自慢のしっぽがフードの奥ですよ。よろしいのですか?」
「……自覚のないっつーんな怖いのう」
「はい?」
「いんにゃ。なーんもゆうとりません。そろそろ来ると?」
「ええ」
 長々とした挨拶のあと、二人はようやく目的地に向けて歩きだした。


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