ひとつちがい 1




 まだまだ厳しかった寒さが、今朝ばかりは緩んだようだった。
 オレは玄関先でドアを開けたまま少し考えた後、一度巻いたマフラーを外してから自宅を出た。学校では既に『 青春学園中等部卒業式 』と、堂々とした楷書で書かれた看板が正門に立て掛けられている。濃い緑色のつぼみからほんの少しだけピンクを覗かせた桜の枝が、もう何年も使い回しているのだろう古ぼけたその看板を飾っていた。せっかくの記念事なのだからケチらず新調すれば良いのと思わないではない。けれど、今年も来年もその次も同じ看板に見送られて卒業していくのだと思えば、自分でも不思議な程に込み上げるものがあった。自分は先輩たちの後ろを歩いているのだということを、今更に納得する。青学に通ってもう丸一年になろうとする今、やっと所属していることの意味を理解できた。それは、学校生活の中心にある部活についても同じ事。
「おーいー越前!んなとこ突っ立ってない来て仕事しろー」
 感傷に流され校門の下で足が止まってしまったところに、校庭の真ん中から声が響いた。早朝のため人もまばらな学校内に、新たに青学テニス部の部長になった桃先輩の威勢の良い声はひどく目立つ。テニス部と同じく3年の追い出し会を準備するため登校していた他の部活の生徒から、一斉に注目を集めた。しかし当の本人は周りの視線を気にする様子など微塵もなく、抱えていたダンボールを高く掲げて笑っている。快活な笑顔は初対面から変わることなく、これまでに比べて大幅に戦力を欠いた新体制を前向きにスタートさせるのには抜群の威力を発揮していた。部長こそ去年の手塚部長とは全く違ったタイプだったが、発足して三ヶ月ちょっとになる新体制はまずまず上手い具合に進んでいる。桃先輩は、この追い出し会をきっちりやり遂げて3年の先輩方に安心して卒業して貰うのだと意気込んでいるのだ。その思い入れを知らされている部員たちは、皆せっせと部室から荷物を運び込んでいた。卒業式の後は学内の食堂スペースを貸してもらい追い出し会を行うのが男子テニス部の恒例だというのを、何の拍子にか教えて貰ったことがあった。
 オレにテニス部の恒例を教えたその人は、食堂内で作業していたようだった。校庭の真ん中で突っ立つ桃先輩の背中を窓越しに見咎めたらしく、ガラリと窓を開け半ば身を乗り出して怒鳴る。
「時間ねぇんだから遊んでんな!おらっ、部長!!」
「うるっせえよ、わかってるっつーの!」
「分かってねえから言ってんだ!テメェは竜崎先生んとこ行って予定表提出して来んだろーが、もう行ったのかよ!?」
「あ……ヤベ」
 最後のつぶやきはきっと、食堂の海堂先輩には届かなかっただろう。けれどすうっと笑顔が消えて遠目にも焦った様子の桃先輩を、海堂先輩はすべてを察した風に、どうにもシメの甘い部長を見やってから窓を閉めた。会場となる食堂を使えるように整え、その他様々の準備を実際的に受け持つのはどうやらあの人なのだろう。
 寄ると触ると火花の散る桃先輩と海堂先輩が部長・副部長というポストに就いた時、誰もがこのふたりしか居ないとは思いつつ、誰もがこのふたりで果たして大丈夫なのだろうかと危ぶんでした。しかし、周囲の危惧とは裏腹にふたりはすんなりお互いを補いあった。けなしあい手も足もでるやり取りは相変わらずだったが、最近ではお互いを知り尽くした間柄ならではの馴れを感じさせる。大方の部員たちは、その部長副部長の乱暴なコミュニケーションを少しの呆れと多くの親しみでもって、受け止めていた。
 桃先輩は持っていたダンボールを近くの後輩に託し、慌てて昇降口に駆けて行く。けれど、すれ違う部員たちに声を掛けるのは忘れていない。海堂先輩も海堂先輩で、部室から荷物を運んでくる部員たちをテキパキさばいて室内の準備を進めている。遠すぎて仔細は伺えなかったが、周囲の部員たちは時折笑い、彼はそれに頷き返しているようだった。総じて雰囲気は穏やかだ。
 立場と責任を背負って桃先輩と、そして特に海堂先輩はぐっと大人び落ち着いたようだった。無愛想と薮にらみは相変わらずだけれど、自分から後輩に声をかけるようになったことは快挙だ。元々無駄口を利かない彼のことだから、かえって言葉のひとつひとつが重みをもって感じられる。ほんの二言三言でも一年が好意と尊敬を抱くのに十分だった。今まで散々海堂先輩は怖い怖いと怯え騒いでいた堀尾など、コロリと態度を変えて小判鮫よろしく付きまとっている。彼が他の部員と親しくなるのは余り面白くなかったが、オレもその変化のおこぼれを預かっているひとりだけに複雑だった。
 話掛けた時に言葉を返してくれる、ちょっとした雑用を任せてくれて時々は頼んでもくれる、廊下でばったり顔を合わせた時に、無表情のままだが軽く小突かれる。前よりも近くなった距離が嬉しくて、他の部員よりも親しげな仕草に幸せになった。
 寒風吹きすさぶ中、ぼんやりと立ち尽くしたまま食堂の窓を眺めていたら、まさかオレに気づいた訳ではないだろうに海堂先輩がこちらに顔を向けた。何かなと思って見ていると、ちょいちょいと手招きをした。
 ちゃんと、気付いていてくれたらしい。驚いて嬉しくて、オレは思わず駆け出した。


 「遅刻したくせに笑ってんじゃねぇ」、海堂先輩に叩かれた。
 その後、皆と一緒に大急ぎで準備に掛かった。室内を飾りつけ・飲み物やら食べ物やら花束やらの用意を確認し・状態に合わせて会の進行予定を調整する。バタバタと動き回りここまでやればなんとか大丈夫だろ、と海堂先輩が腰を上げたちょうどその時に予鈴がなった。あまりにピッタリなのに部員たちからオオ、と歓声が上がる。
「ま、ま、これが手塚部長をしてクセ者と呼ばせた所以ってヤツよ」
 歓声に無表情で返した海堂先輩に代わって、打ち合わせのため海堂先輩の隣に来ていた桃先輩が軽く手を上げて応えた。押し殺した笑いが広がり、何人かのお調子者が「桃ちゃん部長のことじゃないっスよ〜」と茶々を入れる。それに室内の笑い声が大きくなって、何かを怒鳴った桃先輩の声はあまり聞こえなかった。もう直ぐに用意された別れの反動か、室内はいつもより妙にガヤガヤと騒がしい。上滑りした楽しげな雰囲気を遮ったのは、パン、という鋭い音だった。大きくもない音だったが、皆一斉に口を閉じ音の方向を向く。海堂先輩だった。
「各自貴重品を確認して、教室に戻る!式の後はホームルームが終わり次第ここに集合、規定の持ち場で待機、大丈夫だな?」
 手を鳴らしてオレを含めた部員の注意を引いた海堂先輩は、必要事項を簡潔に告げる。そして、隣の桃先輩の足をなかなか力強く蹴ってシメを促した。不意の暴力にヨロリと体勢を崩した桃先輩は、振り返って怒鳴ろうとしたのを顎で合図されて、決まり悪げに前に向き直った。仕切りなおすようにコホンと咳払いをする。
「……んじゃ、まあ、先輩方に、テニス部にいて良かった、って思って貰えるよう、盛大に送り出すとしましょうや。しめっぽいのだけはナシだからな!以上!!」
「ッス!!!!!!」
 自分の言葉に照れたように、ニッと桃先輩は笑った。部員たちはその照れと意気込みに感染したように大声で返事をし、散っていった。その間、海堂先輩は桃先輩の足元のあたりを漠と眺めていた。
「海堂先輩、寂しいんスか?」
 周りに人気が無くなったのを見計らって、思い切って聞いてみた。前よりも近くなった海堂先輩の顔が一瞬きょとんとし、次にしかめられ、その後苦笑するように眉が解かれた。長い腕が伸びてきて、オレの帽子のつばをグイと押し下げる。ガツンとおでこの辺りを小突かれた。それなりに痛い。
「やっぱ、生意気だよ、テメーは」
 真っ暗な視界のなか、低い声だけが届く。オレが帽子を被り直した時にはもう、海堂先輩は数歩先で同学年と一緒に歩いていて、何だか綺麗に逃げられてしまった。変わったなあとも変わらないなあとも思いながら、彼らの後ろについて昇降口に向かった。本鈴まで、あとほんの少しだった。



 式は特にこれといったこともなく、ただ眠いばかりだった。
 一度目に目を開けたときは不二先輩が壇上で卒業証書を受け取っていた。女子が歓声をあげていた。
 二度目は知らない人が壇上にいて、けれど乾先輩が手前に控えていた。目が合った。先輩はちょっと笑った。オレは海堂先輩が今どんな顔をして何を見ているのだろうかと思った。
 三度目は隣のヤツに起こされた。モグモグと校歌を歌っていたら、会場の真ん中を通って三年が退場していった。男子にも女子にも泣いているヤツが結構居た。不思議な感じがした。



「僭越ながら!二年八組桃城武、先陣切っていかせて頂きます!!」
「いいねっ、行け新部長!」
「了解ッス!!!」
 言うや否や、桃先輩は真っ赤な液体を一気に飲み干した。笑顔で空のグラスを掲げると、いい加減テンションの上がった会場から歓声があがる。しかし直後に桃先輩が「かっらぁ!!!喉、痛!!」と。喉を押さえて咳き込むのに、さっき以上の歓声があがった。グラスの中身は、ルビーオレンジのサワーに不二先輩提供のタバスコをたっぷり混ぜ込んだものだった。椅子と机をとっぱらい、床に絨毯を敷いた会場は、アルコールも入って完全な宴会と化していた。
 後輩からの三年への記念品や色紙のプレゼントだとか、三年からの挨拶だとか、そういった形式ばったところが終わった後の追い出し会は、桃先輩と菊丸先輩の独壇場だった。ジュースや菓子が散乱する絨毯の上には、時折、中学生には似つかわしくない缶やら瓶やらが紛れていた。式のあと、真っ先に食堂に来ていた桃先輩が一番重いダンボールから意気揚々とそれらを取り出したとき、ぎょっとしたのは一年だけで、二年生たちはむしろ嬉々としてそのダンボールを覗き込んでいた(確かめたら、アルコールの缶や壜は他のジュースにまぎれてちゃっかり食堂の大型冷蔵庫で冷やされていた)。
「ねぇ……アレって、良いんスか?」
「ああ?アレって?」
「あの、お酒。いいの?」
「良くはねぇな。でも慣例だ。どこの部でもやってる」
「あ、そ……」
 普段なら怒って止めさせそうな海堂先輩ですら、その作業に関心を払わない程に平然と受け止めていた。こういうとき、上級生のテンションは分からない。
「がくせいちゅーもーくっ!」
「なんだー!!!」
 食堂内はさらにボルデージが上がっていた。大石先輩と河村先輩は顔を真っ赤にして笑っているし、手塚部長と不二先輩は水ではない透明な液体を酌み交わして馬鹿騒ぎを眺めていた。菊丸先輩と桃先輩は言うまでもなく、他の二年や一年もふたりに弄られて一緒になって騒いでいる。
 オレは熱気が息苦しくなって、人気のない調理場の方に抜け出した。

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 大変遅くなってしまいましたが、
 23000打を踏んでくださった柊修太さんに捧げます。
 リクエスト→「ほかの人から見た乾海」。
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 2004/11/13