ひとつちがい 2




 こうこうと蛍光灯が照らす会場を離れると、調理場は意外なほど薄暗く、しんと静まりかえっていた。
 もう外は暗いことを思い出させる、ひんやりとした空気だった。端のほうに目をこらせば、飲みなれないアルコールで目を回したヤツらが4・5人、毛布にくるまって転がっている。誰が毛布なんか用意したのだろうと、その周到さに驚く。唯一点いている小さな明かり、流しの上の白熱灯から伸びる影がゆらゆらと動いて、誰かいるのが分かった。ぼそり・ぼそりと何かを話す声も聞こえた。転がる部員を気遣ってか、それはとても抑えられた声だった。
「……だから」
「はい」
「…で…………お前……」
「はい」
 内容はほとんど分からない会話をたどって、声の元へ近づく。白熱灯のすぐ下に、ひとりは流しに体を寄りかからせて俯いて、もうひとりは彼を隠すように立っていた。長身の体の輪郭を包むように光りが回り込んでこちらに届いている。その後ろ姿は間違えようもない。オレの近づく気配に気がついたのは、乾先輩の陰にすっかり隠れてしまっていた海堂先輩だった。オレを見てきゅっと顔をしかめた海堂先輩に、ようやく乾先輩がこちらを向いた。薄暗がりのなか、白熱灯の直下の顔がにこりと笑う。
「ああ、越前、どうした?」
「別に。あっち、凄かったんで、抜けてきただけっス」
「はは、凄いのか」
「こんなの、毎年やってんスか」
「毎年だけど、三年には毎年最後だからね。越前だって、一年生でやる追い出し会はこれが最後だろ?」
 毎回特別だから、どうしても凄くなるのさ。
 乾先輩はくさい言葉を、まったく無自覚に言ってのけた。最後、という単語に反応して、海堂先輩の顔がゆがむ。けれどそれを隠すようにするりと身を翻したから、乾先輩は気づかなかった。オレは海堂先輩より背が低くてラッキーだったと、初めて思った。この人が俯いたって、オレは顔を見ることが出来る。
「こんなこと、その辺の二年をパシらせれば良いってのに。アンタが席立つこと、ないっスよ。それこそ三年……最後なんスから」
 海堂先輩は冷蔵庫から一升瓶を引っ張り出して乾先輩に押し付け、代わりに乾が片手に持っていたゴミと空き缶の詰まったビニール袋を取ってしまう。乾先輩とは目を合わせないまま、下を向いたまま言った。ほのかな明かりの下、しかも髪が作る陰に隠れてしまっていたが、よくよく見てみればその目元はすこし赤く、腫れたように厚ぼったかった――海堂先輩がここか、別の場所か、とにかくどこかで泣いていたのを知る。少しどころでなく、それは衝撃だった。
「いいよ、そんなことで先輩ぶるのは好きじゃない。それに……あっちにはお前、来なかったし。オレは海堂と話したかったんだけどね」
 海堂先輩はぱっと顔を上げた。顎を高持ち上げて長身の相手と目を合わせる。けれどオレの頭をぐわんと鳴らした海堂先輩の目元に、乾先輩は何も見なかったようだった。
「オレ、作業があるっスから……」
「うん、分かってる。桃がオレたちの接待やってる分、裏方は海堂に掛かってくるもんな」
「……でも別に、皺寄せくってるって訳じゃ。桃城のヤツも、あれで一応気合入れてやってるっス」
「分かってる。……海堂、騒がしい場は嫌いだしな。だから来たんだ。最後にこうやって、ちゃんと話せて良かったよ。これから、大変だろうけど頑張れよ」
 海堂先輩に返事は求めず、乾先輩はその肩に手を置いてもう一度笑って、そして冷えた一升瓶を抱えて宴会場に戻っていく。オレに早く戻るように合図することも忘れなかった。
 海堂先輩は、乾先輩のひょこひょこと動く背中が光りの届く範囲を過ぎ、影がなんとなく動くぐらいにしか見えなくなるまで、ずっと見ていた。目を凝らしても全く見えなくなってから、ようやく深い息をつく。業務用の大きな冷蔵庫に、ぺたりと背中を預けた。赤く腫れている目元を両の手の甲で覆う。すべてを拒絶するような、傷ついた仕草だった。
「……あの人は、汚いんだ」
 オレはどこかに消えたほうがいいのだろうかと考え、動こうとしたその時に海堂先輩がつぶやいた。自分の手で目を隠した、ぴくりとも動かない格好のままだ。オレに言っているというよりは、独り言を吐き出しているように聴こえた。
「あんな、オレだけが特別みたいな言い方をするくせに、本当は全然違うくせに。数字が合えば、面白ければ、何にだって、同じように興味を持つのに」
 声が弱くなる。それにあわせてずるずると背中を冷蔵庫に沿わせて、タイル敷きの冷たい床に海堂先輩は座り込んだ。
「自分以外は皆同じのくせに」
「オレには、海堂先輩は特別扱いにしか見えないっスけど」
 弱く、悔しさや悲しさばかり吐き出す海堂先輩の声が苦しくて、思わず口を挟んでしまった。海堂先輩はようやくオレの存在を思い出したようにこちらを見る。赤い目が、僅かな時間でますます腫れあがっていた。今の三年が引退してからこちら、ひどくしっかりした彼に見慣れてしまっていたから、こんな風に不安定な姿はなおさら痛々しかった。茫然とした目でオレを見てから、自分自身を哂うように口の端だけで笑う。海堂先輩には似合わないと思った。
「情けねぇな、テメェに慰めされるなんて」
「慰めるってゆうか、だってどう見てもそうっしょ」
「バーカ、テメェに見えるかどうかじゃねぇんだよ…」
 海堂先輩は言葉を切る。オレに合わせられていた視線がふわっと宙に浮く。海堂先輩より少し上の辺りを、不安定にさまよった後、暗く先の見えない調理場の一点を見つめて言った。
「あの人がどう見ているかだけなんだよ」


 調理場から戻った後、桃先輩と菊丸先輩につかまってアルコールを飲んだことがないのがばれて、いいように弄られた。
「我らが一年生レギュラー!越前リョーマくんのーぉ、ちょっとイイトコ見てみたい!!」
 訳の分からない大声と手拍子に無理矢理乗せられて、美味しいとも思えない液体を流しこんでいく。周りが盛り上がれば盛り上がるほど、薄暗い調理場にいる海堂先輩が思い出された。オレが皆の馬鹿騒ぎの中心に居る今、海堂先輩がたったひとりとの別れを惜しんで泣いているのかと思うと苦しくなった。それなのに、乾先輩は何の陰りもなく盛大に弄られ弄り返し、「乾汁卒業スペシャル!」などと遊んでいるものだから、オレは思わずそれを取り上げて一気に飲み干した。無謀な振る舞いに、笑いと驚きと尊敬をこめて歓声が上がる。けれどオレはちっとも楽しくなんかなかった。足元がふらりとして、世界が横転した。斜めに転がる視界の端に楽しそうに笑う、凄くいい顔で笑っている乾先輩が映って、それがグルグルと回って、もの凄く不快だった。
 そうしてオレは会場の真ん中に転がされた体勢で、追い出し会が終わりに近づいた。
 乱雑な空気を十分に残したまま、二年生が三年生に花束を渡す。海堂先輩は大きな紙袋を持って二年に花束を配っていく係をしていて、誰にも直接手渡しはしなかった。全体を眺めるように、間違いがないかを確かめるように見ていて、特別な感情は見えなかった。
 部員の黒山(制服だから本当に黒い)を割って三年が食堂を出ていく。オレも無理矢理立ち上がってその山に加わると、何人かの三年と握手を交わした。ほかの部員も同じように三年生たちに握手を求めたから、ほんの10メートルもない短い距離を彼らが脱出するのにたっぷり10分近く掛かった。桃先輩と海堂先輩は食堂の入り口のところから、桃先輩は笑って、海堂先輩は無表情で、三年生たちが来るのを待っていた。
 ようやく彼らがたどり着き、ふたりと握手を交わす。レギュラーの先輩たちの番になると、桃先輩は明るい表情が一転し涙ぐんた。先輩たちはそれに笑う。けれど海堂先輩は相変わらずで、皆、海堂らしいとそれにも笑った。乾先輩も笑いながら、海堂先輩と握手をしていた。


 菊丸先輩がバイバイと扉の間から手を振り、大石先輩が笑ってその引き戸を閉めた。パスン、という軽い音が静まりかえってしまった室内に響く。やり終わった、という安心感と、終わってしまった、という寂しさが、混ざり合って沈黙を呼んでいた。それを振り払うように、桃先輩が声をはりあげる。
「おーしっ、とっとと片付けて帰るぞ!!」
「うぃーっす!」
 部長の号令に、皆ばらばらと動き出す。明らかに酔いの回っているオレは既に戦力として見なされなかったため、大人しく壁際に座った。けれどそのお陰で、誰が何をしているのかが良く見えた。桃先輩や他の二年がやっていることの傍に付いて動けている一年も半分くらい居たが、残りの半分は何をしたら良いのか分からない風で所々に固まっていた。自分も働いていないのだから大きなことも言えないが、効率が悪いことこの上ない。いつもはそんなことないのにな、と思って気がついた。普段自分からは動けない一年に仕事を教えてやっている――悪く言えばサボリを見張っているのだが――海堂先輩が、出入り口のすぐ傍で立ち尽くしていた。無言で自分の手を見つめる海堂先輩に、忙しく動き回る・あるいは何をすれば良いか分からず落ち着かない周囲は気づかなかった。
 誰もが忙しないなか、海堂先輩の背中はピタリと動かず、固い膜が周りを覆ったように見える。しばらくじっと見つめた後、海堂先輩はその手のひらをほんの一瞬、自分の唇に当てた。ほんとうに一瞬。オレがまばたきをした次の瞬間にはもう、その手はズボンのポケットに突っ込まれていて、もう一度のまばたきの後には手近な一年を呼びつけていた。さらにもう一度、のまばたきは上手くいかなかった。目蓋がひどく重くて何も見ることが出来なかった。目の中の暗闇を見ながら、右のポケットに深々としまい込まれたあの手が、最後に乾先輩と握手を交わした手なのだと、ようやく思い至った。
 赤く腫れた目といい、調理室での自嘲といい、手のひらのキスといい。感傷的な海堂先輩は、あまりにらしくなかった。そのらしくなさの原因が、全てひとりのためにあることが、何だかとても痛々しく思えて、こちらの夢の中まで痛みが伝染するようだった。


 勝手に貰ってしまった胸を突く痛みに、ふわふわとした浮遊感が加わって目が覚めた。あのサバトの跡のような食堂で、オレは寝てしまったらしかった。ヒヤリと冷たい空気が顔に当たる。昼間は暖かかったのが、日が沈んで一気に冷え込んだようだった。周囲は暗く、電柱の明かりがアスファルトに転々と落ちている。いつもの帰り道を、オレは誰かに運ばれていた。
「桃先輩?」
 一番ありそうな名前を読んでみる。しかし、返ってきたのは全く別の声だった。
「ちげぇよ」
「……海堂先輩!?…ったぁ」
「馬鹿、お前、酔っ払いなんだから大人しくしてろ。飲めないのに飲むからだ、馬鹿野郎が」
 低く響く声に驚いて、オレの声は大きくなった。直後にぐわんと頭が鳴り、真横から殴られたような痛みが走る。それに追い討ちをかけるように海堂先輩が、短い文節のなかで二度も馬鹿とののしってくれた。しかし確かに今は、オレもオレが馬鹿のように思える。
「……桃先輩は?」
 馬鹿をやったオレの面倒をみるのは、どちらかといえば桃先輩が多かった。何故海堂先輩がオレを負ぶってくれているのかは謎だった。そもそも海堂先輩にこんなに近づいたのも初めてだ。
「バアさんに呼ばれた。流石に騒ぎすぎってことで苦情が来たらしい。ひとりで居残ってる。……顧問だし、反省文ってとこだろ」
「馬鹿……」
「ああ、あの野郎は馬鹿だ」
 珍しく意見が一致したところで会話は途切れた。お互いそれをことさら繋げようとは思わなかった。海堂先輩は背負ったオレの存在をものともせずにタッタと歩いていく。その勢いで真っ直ぐな髪がなびき、時々、オレの顔に当たった。見かけのイメージよりずっと柔らかくて、細い髪だった。ぴったりと重なった背中からは、さっきからコート越しに海堂先輩の体温が伝わっていた。オレよりもずっと大きな背中だった。そして、乾先輩のはさらにずっと大きいのだろう。手のひらを唇にあてた海堂先輩の横顔が、乾先輩の背中に重なって思い浮かんで仕方なかった。

 海堂先輩の高い温度を感じながら、オレは、テニス以外の物事は何て難しいんだろうと、息をついた。






 リクエストをお受けしてから一年以上(…申し開きも出来ません)たってしまい、
 わたしの乾海への想いにも変化がありました。
 ですが、もし楽しんでいただけたなら幸いです。
 タイトルの「ひとつちがい」は、
 乾と海堂の、海堂と越前の差を書ければと思ったことからつけました。
 2004/11/13