佐渡のトキ 絶滅の危機から再生への道のり


 かつて、トキは北海道、本州、伊豆七島、四国に生息していたが、昭和に入って生息数は大幅に減少し、わずかに佐渡に5羽の野生のトキが生育するのみとなった。トキの存続を危うんだ環境庁は、1981年、佐渡に生息するトキを捕獲し、人工繁殖によってトキを増やし野生復帰を図ろうとした。果たして、その構想は成功したのであろうか。
トキの生態、その学名   
   トキ(朱鷺)は、ペリカン目トキ科の鳥で、学名は Nipponia nippon という。この学名は、幕末に来日したシーボルトが江戸参府の途中、近江の大野で買い、オランダに送ったトキの剥製に基づいてグレイが命名したもので、ニッポニア・ニッポンの表記からは、当時、トキは日本固有の鳥と考えられていたことが窺える。トキの行動で特徴的なことは、田圃や水辺によく姿を見せることである。それは発達した嘴を利用して田圃や湿地などの泥中に差し込み、ドジョウ、サワガニ、カエル、昆虫などを捕食するためで、特にトキはドジョウを主食とし、一日に300gものドジョウを食するという。トキの生存にとってドジョウの生息する水田や湿地は、欠くことのできない重要な存在なのである。  
絶滅の危機が迫ったトキ。野生のトキを捕獲し人工繁殖を目指す   
   明治から昭和にかけて、水田や湿地の急速な都市化によってトキの生息環境は失われ、トキは佐渡と能登に追い詰められていった。1938年の天然記念物調査によれば佐渡に20〜30羽、能登に5〜10羽と推定されたが、その後減少は続き1980年には佐渡に5羽となり絶滅の危機が迫っていた。こうした状況の中で、専門家の間ではトキを増やすためには佐渡のトキ全羽を捕獲し人工繁殖で増やす案と、あくまでも野生状態で生息・繁殖環境を改善して増やす案が対立していた。国会の環境委員会でトキを捕獲し人工的に生存させる方途の適否について質問があり、これに対し当時の正田環境庁自然保護局長は「自然に増殖するのは期待できないという学識経験者の意見が固まっている関係上捕獲をして増殖を図りたい」と答え、環境庁は野生のトキ全羽を捕獲し、人工繁殖によってトキの再生を目指すことになった。   
トキ5羽を一斉に捕獲し、本格的な人工増殖が始まる   
   1981年1月、雪原にいるトキはロケットネットによって片野尾で羽、東強清水羽、吾潟で羽の5羽が捕獲された。最後の1羽が捕えられた日の光景を山本輝治氏(両津市トキ愛護会会長)は、「羽の全家族が怪我もなく一緒になってくれてよかったと、手放しで喜んでいられない気がする。長い歳月、手塩にかけて育てたかわいい5人の子供が見ず知らずの人に連れて行かれたという腹立たしさ、淋しさ、これから先のことを考えての不安さが胸の中に大きく広がる」と、トキとの絆を慈しむ地域住民の心情を吐露している。トキは捕獲後、収容された箱の色に因んで「キイロ」「アカ」「シロ」「アオ」「ミドリ」と名付けられ、既に飼育中の「キン」とともに佐渡トキ保護センターで人工繁殖が進められた。しかし、羽のトキから雛の誕生は見られなかった。   
中国産トキを導入し、トキの増殖をはかる計画   
   トキ5羽が一斉捕獲された4か月後、1981年5月23日、中国陝西省洋県で、野生のトキ7羽が劉蔭増氏によって発見された。トキ発見のニュースは、日本のトキ関係者に大きな衝撃を与える。早速、7月に当時の鯨岡兵輔環境庁長官は中国を訪問、谷牧国務院副総理に会い日中相互のトキ増殖のため専門家の交流を提案し、月には日中トキ専門家交流会議が開かれ、中国のトキを日本に移し人工増殖を推進することが同意された。
 それまで、日本と中国のトキは外見や行動様式から同一種と考えられてきたが、石居進早稲田大学名誉教授や山本義弘兵庫医科大学助教授は日本産と中国産のトキの DNA 分析を行い、同一種であることを確認した。日中間のトキ人工増殖は遺伝学上全く問題がないものとして進められた。
 
 
トキ「華華」の来日と返還。ついで雌雄2羽の来日   
   1985月、正田泰央環境庁事務次官は、楊鐘中国林業部長と会談しトキの貸与を要請する。楊鐘林業部長は中国産トキ「華華」(ホアホア。雄)1羽を、日本産トキ「キン」(雌)との増殖を図るために貸与することを表明し、日本政府は洋県のトキ増殖事業に協力することを表明する。この年の10月22日、北京動物園に飼育されていた「華華」は、ペアリング相手の「キン」の待つ佐渡トキ保護センターに到着した。しかし、1988年と1989年の繁殖期にペアリングが試みられたが産卵せず、「華華」は来日から年後に中国に返還された。   
   「華華」が中国に帰ってから年後、1994年に中国政府の配慮で洋県生まれのトキ「龍龍」(ロンロン)と「鳳鳳」(フォンフォン)の1つがいが来日した。2羽のトキを一刻も早く安全に佐渡トキ保護センターに収容するため、洋県トキ保護飼育センターからから陸路を10時間で西安へ、西安から空路名古屋へ、さらに名古屋から自衛隊輸送機とヘリコプターを乗り継いで佐渡に到着した。十分な受入れ体制のもと「龍龍・鳳鳳」ペアの飼育は始まった。しかし、3月後、不幸にも「龍龍」が急死する。残された「鳳鳳」は急遽「ミドリ」とペアリングに入り翌年春5個の卵を産み、「鳳鳳」と「ミドリ」は交代で抱卵を続け、雛の誕生が期待された。しかし、今度は「ミドリ」の急死で個の卵は孵化せずに終わった。   
さらに中国のトキ1つがいの来日。待望の雛が誕生する   
   1998年、来日した中国の江沢民国家主席は天皇陛下に、1つがいのトキ「友友」(ヨウヨウ)と「洋洋」(ヤンヤン)を贈ることを表明する。翌年の月、「友友」と「洋洋」は西安空港から直接新潟空港に、さらに小型機で佐渡空港へ、地元の熱烈な歓迎の中を無事佐渡トキ保護センターに到着した。そして、月22日、待望の産卵が始まる。「洋洋」は初め2個、順次1個ずつ、計個の卵を産む。5月21日午後3時30分、孵卵器の中で2番目に生まれた卵の「はし打ち」が始まり、卵殻に穴が開いて全身が出る。日本初の人工飼育下でのトキ誕生の瞬間である。トキは「優優」(雄)と名づけられ、トキ再生の起点となる。この後、順調に人工繁殖は進み2012年には飼育トキは199羽となった。   
飼育トキを放鳥し、38年ぶりに野生下でトキの雛が巣立つ   
   2008年9月25日、飼育トキの野生復帰に向けた第1回の放鳥が小佐渡の山地で行われた。羽ずつ木箱に入れられたトキ10羽は放たれ、佐渡の空に飛び立った。放鳥後、10羽のうち8羽のトキが再び佐渡の人たちの前に現れ、採餌行動や力強い飛翔を見せた。そして、第回の放鳥から年後の2012年525日、遂に、放鳥されたトキから雛が生まれ巣立った。野生下での雛の巣立は、1974年に両津市(当時)立間の小佐渡東部海岸の森で雛の巣立が確認されて以来、実に38年ぶりのことである。この日は、中国産トキの導入と懸命な増殖努力によってトキが再生し、野生に復帰した記念すべき日となった。   
今後の課題は、トキが生育できる環境の保護と維持  
   2012年末の日本のトキは、飼育されているトキ199羽、放鳥され野生下にいるトキ77羽の合計276羽である。これらのトキは、すべて1999年に中国から来た1つがいのトキ「友友」と「洋洋」から生まれた子孫達である。一方、中国のトキは、1981年に洋県でトキが発見されて以来、日本政府のトキ増殖事業への資金協力や日本鳥類保護連盟の営巣地の保護管理、餌場の確保、人工飼育などへの支援活動によってその数が順調に増加し、野生下にいるトキと合わせ約1,800羽(2010年)が生息するという。
 今後、日中のトキはさらに増えていくであろう。課題は、トキが生存できる環境をいかに保護し維持していくか、である。
 
 
2013.3.30 加治  隆 
(NPO法人 日本アメニティ研究所 理事長、
 元 環境庁審議官)
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