介護保険下での高齢者の介護      
  −市民ボランティアの経験から−


「如意」(京都大学経済学部出口ゼミナールの同人誌)第15号からの転載です。 
  注:表題と内容の一部を変更しています。                    
  「昨年」とあるのは、2011年、「地元」とあるのは、東京都調布市です。
 
   
 如意12号でも書いたのですが、私は昨年までの12年間、地元で介護保険に関連したボランティアを続けていました。介護保険制度が2000年から始まったのですが、たまたま市役所の前を通ると、介護保険について市民の相談や苦情に応ずるためのボランティアの募集をしていました。そのころ私は大学で社会保障論を教えていましたので、知識もあり、情報もありで、ひとつ自分の持っている能力を実用に供してみようと思い、応募してみました。そこで有志が集まり、「介護保険ちょうふ市民の会」というのを作って活動を始めました。それからずっと活動していたのですが、昨年3月に解散して終りになりました。終わりの3年は私が会長をやっていました。
 そこで、介護保険下での高齢者の介護・福祉がどのようになっているか、もう一度「市民の会」での経験を踏まえて書いてみます。
   (一)
 社会保障制度は、小泉改革以来の政治の理念の混乱の中で、次第に劣化してきたのですが、日本の社会保障の歴史の中で、介護保険は最後の輝きともいうべきもので、国民普遍的な構造と世界的に高い給付水準をもって作られたといってよいと思います。
 しかし今日では国民の間で介護保険がひとつの常識となるまで制度が普及し、高齢者の生活の実態についての社会の認識も進みましたが、高齢者の福祉・介護にまつわる問題はなくなるどころか、いっそう深刻な状態が続いているといわざるをえないのです。
 これは、制度発足後に福祉抑制の見地から給付内容の抑制・制限が図られたこともあるのですが、そのほかに、高齢者や家族の福祉のためには、制度や行政の問題点とは別次元の要素があり、介護保険のシステムが決定的なところでは余り役にたっていないのではないかと思われるのです。
   (二)
 私自身が後期高齢者といわれる年齢になり、要介護直前ですが、「市民の会」の相談をやってみて思い知らされたのは、高齢者の場合、要介護状態がいったん始まれば、(一時的な改善はあっても)終ることがないということです。
 はじめ、立ち居振る舞いに不自由が出てきて掃除や洗濯がつらくなれば、まず家族の誰かに手伝ってもらいますが、次第にそれでも支えきれなくなって、介護保険のヘルパーに来てもらうことになります。ヘルパー派遣は、近頃は「介護予防」とか「自立支援」とか称してあれこれと制限がつくのですが、手続きをすればできます。
 しかし体が弱らないようにいろいろ努力をしても、やはり時間がたてば必ずおとろえが進みます。そうなると家事の支援だけでなく、着替えやトイレ、入浴にも介助してもらわなければなりません。高齢者はほとんど何か病気があるものですから、医者にかかる手はずをつけなければいけませんし、看護婦の訪問もしてもらいたいし、外出の機会を作るためにデイサービスも欲しいとなります。このような初期の段階では介護保険のサービスはなかなか役に立ちます。介護サービスでやってもらうこと、家族がやること、本人ができることを組み合わせ、上手にアレンジしてやれば、日常生活のレベルが大きく改善されることが多いのです。
 それでも病気が進んで、入院ということも出てきます。適切な病院に紹介されてすぐに入院できればよいのですが、そうでなければ病院探しが一苦労です。入院しても、その病院でよかったのだろうか、費用は高いだろうかといった不安はつきません。
 
   (三) 
 不安ながら一応治療が終わり、病院から「これ以上この病院ではすることはありません。」と退院を求められることになりますが、ここで問題が深刻になることが多いのです。
 高齢者の場合、治療が終ったといっても若者のように完全治癒ということはありません。入院まえよりおとろえています。自宅に、人手と広い場所となじみの「かかりつけ医」があれば、退院して自宅に戻って療養ができます。しかし多くの場合は、住居は狭く、家族はおおむね仕事があって人手がないのです。自宅療養が難しいとなれば、他の病院への転院か、何かの介護施設を探すことになります。家族親戚が集まって相談をしますが、よい智恵はなかなかありません。
 病後のおとろえた高齢者の療養のために、長い間預かってくれる病院は、ほとんどありません。寝たきりの要介護高齢者は、制度の建前としては特別養護老人ホーム(特養)が入居させてくれるべきですが、施設が絶対的に不足しているので、すぐには無理ですし、待っていても難しいのです。高齢者が、痰の吸引や経菅栄養が必要な場合などは、受け入れができる施設はさらに限られます。
 病院は、患者の退院先を考える責任を一応は持っているのですが、実際に適切なものを見つけて、入居を見届けるところまでやってくれるところはまずありません。
 もうひとつの介護施設である老人保健施設(老健)は、入居費用が高いせいか(慣行的に余分の自己負担を取る。)比較的に入居しやすく、短期的にこれを選んで老健を転々とするケースが多いのです。
 
   (四) 
 近頃はそれぞれの地域ごとに「地域包括支援センター」というものがあって、高齢者の福祉の問題にはどんなことでも相談に乗ってくれることになっています。センターの看護師や社会福祉士などの専門家が相談を聞いて、個々にサービスを探したり、斡旋したり、調整をしたりしてくれることになっているのです。確かにこのセンターによって、個別の高齢者の問題解決ができたケースが見られるようになりました。
 問題は、現実に使用可能なサービス資源が地域にどれだけあるか、そしてセンターの専門家がそれを活用できるネットワークを持っているか、熱心にやってくれるか、すなわち客観的な資源量と担当者の人的な能力・資質の程度によって成否が決まることなのです。そして現状は両者ともに貧弱で、高齢者のニーズを満たすのに全く足りないといわざるを得ません。 
   (五) 
 スムーズに特養にはいれたらそれで万事めでたしかというと、決してそうではありません。
 今の特養は設備の点ではかなりのレベルにあるといえますが、高齢者が家族や自宅や友人と別れ、今までの生活と離れて、ひとりで毎日を過ごさなければならないのです。どこで自分のアイデンティティーを見つければよいのでしょうか。スタッフの人員が過少なことはいうまでもありませんから、スタッフが最大の努力をしてくれても十分には行き届かないし、入居者には負い目もあり、遠慮もあります。(不思議なもので、特養では本人にも家族にも「お世話になっている」という意識が大きいのですが、有料老人ホームにはほとんどありません。)施設での生活になじめればそれなりに楽しい暮しができますが、どうしてもなじめない人も多いのです。入居の費用は介護保険でもかなりの額になります。
 家族もこれで安心かというと決してそうではありません。施設によっては様々な手伝いや費用を要求するところもあります。また病気で、「預かりきれないので退所して欲しい。」といわれる心配にいつも脅かされています。多くの家族は、高齢者を見捨ててしまったのではないかという自責感にとらわれます。家族間で面会や手伝や費用をどう分担するか、といった争いも起こります。
 
   (六) 
 施設が見つからなければ、在宅で介護するしかありません。元の自宅にもどれる場合は少なく(歩けなければ団地の3階以上には住めません。)、息子の家庭で同居といったケースも多いのです。そこには他の家族もいますから場所は狭く、不便です。いままでとは違った環境で、自分の居場所のない生活となります。
 家族は自分の親ですから一生懸命に介護に当たりますが、それでも時には手がかかり、ものが分からなくなった親に、いらいらすることも起こります。本人にとっても自分が庇護される立場になったことが納得できません。そんなことから本人と家族の間、家族相互の間に感情の行き違いが出てきます。
 家族と高齢者の間の愛情が続いていて、一緒に住んで介護をすることが自然に当たり前と思えることが、高齢者と家族の双方にとって在宅介護がうまくいくための鍵ですが、これが案外難しいことなのです。家族も高齢であったり、病気を抱えていることもまれではなく、本当につらい状態です。
 一方この段階こそ、介護保険のサービスやそのほかの自治体の行政サービスやさらに近所の人たちの好意を大いに活用するときです。ヘルパーをはじめ訪問看護やデイサービス、訪問リハビリテーションなど上手に使えば、予想以上のことができます。介護の担当者の専門技術を信頼することが大切です。
 単身、在宅で介護サービスを活用しつつ、最後まで暮らし続けることも不可能ではなく、実際にそのような高齢者も、少なからずあります。
 介護の現場で大切なことは、本人、家族とサービス担当者との関係です。例えばヘルパーをとってみても、当然ながらその資質に差があります。スキルの違いはもちろんですが、相手の気持ちを汲み取ったり、優しい言葉をかけたりといったいわば聡明さの違いが大きいのです。本人や家族とヘルパーとの信頼や気持ちが通じるかどうかでも、効果が大きく違います。これは家族側の心構えにかかわりますが、同時に相性という要素も無視できません。ヘルパーが合わなくて我慢をしたり不平をいったりするひとが多いのですが、自分に合ったヘルパーを選ぶ努力が必要です。
 また近所の人たちが心配してくれたり、手伝ってくれたりすることが大きな力になります。そのために、積極的に上手にお願いできる人は有利です。このようなことは制度や行政の問題ではなく、人と人の間の関係の造り方という市民の側の問題なのだと思います。
 またかかりつけの医者が、介護スタッフを指導してくれれば大きな成果が上がりますが、残念ながらそれを十分にできる医者は少なく、現状では介護スタッフと医者とのコミュニケーションは、一般に不十分だといわざるを得ません。実はこれが介護の最大の問題かもしれないのですが、行政や医療界の努力で少しずつは改善されてはいても、まだ道遠しというところです。
 
   (七) 
 誰か家族の中で、ひとり介護の中心になる人が決まってくるのが通常です。しかしここに大きな問題があります。だれでも喜んで介護の責任者になるわけではありません。多くの場合、妻や娘、嫁(母親の場合もまれではありません。)という身近な女性が結果的にその役割を負わせられることになります。近頃は、嫁ではなく、息子がその役割を引き受けることも多いのです。一般論としては、誰か責任者を決めて、周りは其の人から指揮を受けて労力的、資金的に協力するのがよいとされていますが、現実は責任者だけにすべてを負わせて、周りは口を出すだけで協力はしないということになりがちで、これが家族親戚の葛藤の原因となります。
 責任者が、介護サービスを使ったり、医者や地域包括支援センターとの相談をしたり、近所の手を借りたりといったことが上手にできる人であれば、耐えていけます。また介護ばかりでなく、趣味を持っていたり、「家族の会」などの息抜きと発散の機会のある人は続けられます。しかし一人ですべてを抱え込み、精神的にも体力的にも限界状態で介護を続けざるを得ない人も多いのです。しかもそういった追い詰められた状態の人は、自分の愛情が足りないのではないか、介護が不十分ではないかという疑心暗鬼に陥り、自責感に激しく苛まれることも稀ではありません。
 
   (八) 
 介護されていた高齢者は、いずれ亡くなります。その後に責任者が抱く感情はさまざまですが、悲しみとともに後悔があり、同時に大きな開放感があり、さらに何ほどかの達成感があります。この達成感をバネにして次の積極的な生活を求めて、社会に役立とうという人も多いのです。「市民の会」のメンバーにこのような人が大勢いました。
 また介護中の家族との感情的な葛藤を解消できないままの人もあります。
 
   (九) 
 近年認知症が急に増えたように見えるのですが、これは認知症に対する世間の関心が高まったせいだと思います。12年前も、認知症(当時は痴呆といっていました。)についての相談の状況から見ると、いまと同じように多かったのです。
 認知症については、本当に実効のある治療法が近いうちに開発されそうな段階ですが、いまのところでは治癒はできません。早かれ遅かれ、しだいに重症になってゆき、最後に合併症をともないながら死に至ります。
 しかしそこに至る過程はケースによって千差万別です。暖かい家族に囲まれ、よい医者にめぐり合い、近所から理解を持って見守られ、本人もすることがあって、穏やかにゆっくりと時間がたっていくケースもあれば、家族に疎まれ、本人は苛立ちと絶望の中で(認知症だからといってなにも分からないのではありません。)、近所からの気づきもなく、本人も家族も生活が崩壊してしまう悲惨なケースもあります。これらの事例を見ていると、本人の症状の違いもあり(認知症の症状として、攻撃的になるケースなど。)、医療や介護の専門的サービスが適切かどうかの点もあるのですが、家族や近所の周囲の人たちがうまく対応してくれるかどうか、その対応の違いが大きな要素であるようです。その違いは、現在のその場の環境や人間関係だけでなく、本人が元気であった時代に、家族や周囲の人々とどのようにかかわってきたか、そのかかわり方の差にに違いがあるようにも思えます。
 
   (十) 
 私たちの「市民の会」ですが、発足当初は総てが不備でしたから、市役所などの行政や専門の相談機関より、かえって私たちのほうが知識も情報も多く持っていたので、市民からの相談が極めて多く、繁忙を極めました。「市民の立場に立って」をモットーにしており、実際にできることが一般的な制度や仕組みの説明をしてあげる程度に過ぎなくても、結構役にたっていたようです。
 それ以上は、せいぜい事務手続きの代行くらいで、相談者にマッチした医者を見つけたり、ヘルパーを具体的に紹介することなど立ち入った支援はほとんどできませんでした。できる限りのことをしようという意気込みでしたが、問題の解決という意味ではたいした成果はなかったのでしょう。
 突き放していえば、市民にとっては実際に役に立つ医療や介護のサービスや地域の手助けが身近に十分に存在していることが必要なので、いくら丁寧な相談をしてもそれだけでは何もならないということだと思います。
 しかも介護保険が市民の間で常識化して、改まって相談する気持ちもなくなってきたらしく、相談の件数が次第に減ってきました。最初の発足のときには志を同じくする人たちが数十人集まりましたが、その後から参加する人が少なく、次第に会員数が減少し、必然的に高齢化してきました。解散の時点では平均年齢は75歳に近かったのではないかと思います。
 まだ周囲の皆さんから多少とも期待を持たれている間に活動を止めた方がよいと考え、会員協議の上、会を解散しました。 
2012.10. 7 三井 速雄   
執筆者の紹介  元 徳山大学教授、国際医療福祉大学教授、
社会保険大学校長
 
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