アメリカ、医療保険改革法の成立


 オバマ米大統領は、2010年3月23日午前、議会が可決した医療保険改革法案に署名し、同法は成立した。これにより、多年の懸案は法制のうえで決着がつき、アメリカの医療は国民皆保険に向けて大きく前進した。
改革の背景 〜 市民の6人に1人が医療保険に加入していない
 よく知られているように、アメリカ合衆国にはこれまで、全市民を対象とする公的医療保険制度がなく、高齢者を対象とするメディケアがあるだけである(ほかに、低所得世帯や障害者を対象とする公的扶助としてのメディケイドがある。)。
 一般の市民は、勤務先の会社団体あるいは官公庁が契約している民間の医療保険の適用を受けている。勤務する事業所から医療保険の提供を受けられない人や自営業者の場合には、個人で医療保険会社と契約することになる。
 このため、医療保険に加入していない市民が多数にのぼる。2008年時点で、総人口約3億0148万のうち、民間および政府の医療保険・制度で医療費をカバーされない無保険者の割合は15.4パーセント、約4634万人であった。
 企業が従業員にたいして医療保険を提供する義務はない。現実には、企業ごとに差はあるものの、2008年現在、18〜64歳の従業員の70.3パーセントが勤務先を介して医療保険に加入している。企業の保険加入には規模による差異があり、従業員200人以上の企業の98パーセントが医療保険を提供しているのにたいし、中小企業(200人未満)では59パーセントにとどまっている。2008年現在で、総人口約3億0148万のうち、約1億7633万人(58.5パーセント)が雇用主提供医療保険に加入している。
区 分 民間・政府医療保険の対象者  % 無保険者 %
民間 メディケイド
2008年 84.6 66.7 14.1 15.4
医療費の高騰による保険料負担の増加
 1980−1990年代に医療費が高騰すると、保険料は企業にとって無視できない負担となってきた。雇用主が負担する保険料の額は、2007年には3984億ドルで、民間企業では利益(税引き後)の27.7パーセント(2007年)を占めている。
 雇用主は、保険料の負担を軽減するため、従業員に費用移転をするようになり、何らかの保険料を負担する従業員の比率は2001年の68パーセントから2003年76パーセント、2005年79パーセントと上昇し、2008年も80パーセントとほぼ横ばいを保っている。また、受診時の自己負担を設定したり、企業の負担する金額に上限を設けて、年金や家族への給付に対して「カフェテリア」プランを従業員に提示し、そのなかで選択させる方法も用いられている。
 ある調査によれば、2009年における保険料額の平均は、単身で年額4824ドル、4人世帯では年額1万3375ドルとなっている。
無保険者は増える方向にある
 保険料および自己負担が増加する趨勢のもとに、医療保険のカバー率は低下の傾向にある。
それとともに、注意を要するのは、この加入率に人種、あるいは家計所得によって顕著な差異が見られることである。人種別ではヒスパニック系の無保険率が高い。また、所得の低い階層ほど無保険率は高い。
年 次 民間医療保険 % 無保険者 %
2006年 67.9 15.8
2007年  67.5 15.3
2008年  66.7 15.4
人種 民間医療保険 % 無保険者 % 家計所得 民間医療保険 % 無保険者 %
白 人 69.3 14.5 2万5000ドル未満 29.7 24.5
黒 人 52.2 19.1 2万5000〜5万ドル未満 55.6 21.4
アジア系 68.2 17.6 5万〜7万5000ドル未満 75.0 14.0
ヒスパニック系 43.8 30.7 7万5000ドル以上 86.5 8.2
貧困者 21.4 30.4
医療費の増加は続く。それがもたらす歪み
 米国の国民医療費は、2007年に約2.2兆ドルで、GDP比で16.2パーセントとされる。過去5年間の年間増加率は、6〜9パーセントである。
 一人当たり医療費は、2007年に約6900ドルで、年に5パーセントないし8パーセント弱の延びとなっている。
 参考までに、日本の国民医療費は、平成20年度(2008年度)に約35兆円、国民一人当たりでは27.2万円、国民所得対比で9.9パーセントであった。
 米国の一人当たり医療費は高く、他の主要国の2倍という調査結果もある。高コストの医療費のいっぽうで、米国の診療水準の高さは世界で群を抜いている。最先端を行く研究は各国から頭脳を集め、医薬の開発、治療方法の改善を通じて医学の向上に寄与している。反面で、進歩した医療の恩恵に預かることのできない人が増加している。医療保険に加入していない人は、通院を避けて病状が悪くなってから治療を受けるため、かえって療養費がかさむという悪循環に陥る。医療費を支払うことができないままに病気の治療をあきらめる患者も多い。また、医療費の債務が基となって個人破産に追い込まれる人が増加している。
医療制度の改善を求める声、政治上の最重要課題、難航した法案審議
 高い医療レベルと安心できる治療との乖離、米国の医療が抱えるこの大きな問題は、前々から識者が指摘し、市民がその解決を政治に求めてきた。これに応えるべく、歴代政権は医療制度の改善を検討してきたが、関係者の利害が対立するなか、確たる道筋を見いだせないままに推移してきた。
 2008年の大統領選挙戦の渦中で、医療制度改革は主要論点の一つとなった。オバマ大統領は、2009年1月の就任演説のなかでこの課題への取組みを約束し、「手が届く保険」への加入を政府が支援すると述べた。医療保険改革はオバマ政権にとり内政の最重要課題となり、同年9月には大統領は異例の議会演説を行って改革案の大枠を示した。しかし、「大きな政府」に反対し、あるいは懸念を示す人びとも多い。首都ワシントンでは10万人を集めた反対派の抗議集会が開かれた。

 改革への賛否をめぐり深刻な対立が露呈するにつれ議会での法案審議は難航した。下院および上院で異なる内容の改革法案が可決され、一時は廃案の瀬戸際に至ったが、大統領の懸命の議員説得により僅差での成立となった。
成立した改革の骨子
 リベラル派が推進し下院が可決した法案に含まれていた公的保険の導入は結局見送られた。民間の医療保険会社が引き続き運営主体となるが、ほぼ全国民に医療保険への加入を義務づけ、加入しない者には罰金を科す。いっぽうで保険会社には既往症を理由とする保険への加入拒否を禁止するなどの規制を加える。低所得層には助成を拡大し、富裕層には増税する。これらにより、今後10年間で医療保険加入率を83パーセントから95パーセントまで高めることとする。財政負担の増加に対応するため高額の保険への課税や高齢者対象の公的保険の効率化を推進し、総費用は10年間で9,400億ドル(約85兆円)とされている。
 改革法は成立したものの、保守派の反対はなお根強く、「論議は終わったわけではない」として国政選挙での争点として巻き返しを図る勢力が存在する。改革法に盛り込まれた諸措置は今後時間をかけて実行に移されていくだけに、選挙による政治情勢の変化、あるいは財政状況の推移によっては、今回決定をみた医療改革の内容に修正が加えられる可能性が残っている。
資料


米国の事情および数値は、医療経済研究機構「アメリカ医療関連データ集(2009年版)」に依拠した。
日本の国民医療費は、厚生労働省「平成20年度の国民医療費の概況」による。
法案成立の経過、改革の内容、今後の展望などは、日本経済新聞によった(2010.3.23、24、同夕刊)。
2009.2.16初回、2011.9.23四訂 佐々木 喜之
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(090221追加、110924更新)