幕末維新期に種痘の普及に献身した医師たち
〜一地方医若山健海の活動を辿って〜


―はじめに―   
予防接種のさきがけ   
   本稿は、予防接種のさきがけである「牛痘種痘」の歴史を辿り、わが国の種痘揺籃期における一地方医「若山健海」の活動を紹介するものである。
 筆者は、明治・大正期に活躍した歌人若山牧水の作品に親しんだ縁で、彼の祖父若山健海が医者であり、まさに種痘普及の黎明期における種痘医として、日向国(現在の宮崎県)の僻村で活動したことを知った。そして、彼が遺した僅かな記録を手掛かりに、当時の活動の意味を探ることを通じて、種痘の歴史を確認するとともに、当時の医師たちの、種痘普及に注いだ情熱や努力、幼い者たちの幸せを願うひたむきな精神に触れ、強い感動を覚えた。
 
 
西洋医学を学ぶ窓、長崎   
   江戸時代、長い鎖国の間、長崎には、僅か清国(現中国)とオランダの2か国相手ながら、外国との交易の窓口(出島)があり、ここでは外国情報に接する機会もあったので、有意の青年達にとっては、先進的な勉学の憧れの地でもあった。とくに、幕末には、オランダ語を通じて学ぶ西洋の科学技術や医学分野の知識は貴重な情報だった。その習得のために、幕府や諸藩が派遣する人材だけでなく、私費で学ぶ若者達もいた。(それには医師の子弟が多かったようで、若山健海のような農家出身で自力で学んだケースは珍しく、注目したい。)   
近代医学の礎を築いた群像   
   修学後の彼らは、その後全国各地で、わが国近代化の基礎作りに寄与した。顕著な例として、オランダ商館医として着任したシーボルトと協力し、または彼に師事した人材の中から、後のわが国の医療に影響を及ぼす人物を輩出したことが挙げられる。後出の種痘導入に成功した楢林宗建や関西地方を中心に種痘活動を組織的に進めた緒方洪庵などはその好例である。伊東玄朴は、シーボルトに学んだが、シーボルト事件での連座を辛うじて免れ、後に江戸に「お玉が池種痘所」を開設して江戸での種痘活動をリードし、後年幕府の医官に就任するまでになって、近代医学の礎を築いた。
 このほか、長崎留学はしないまでも、様々なルートでオランダ医学を学んだ医師たちが多数いた。彼らは、その後の種痘普及のネットワークづくりや連携に大いに力を発揮したといえよう。
 
   折から時代は、日本の周辺に外国船が頻繁に出没し、周航と開国要求を重ねた時期。先駆的な医師たちは、オダンダ医学を通じて、国の近代化と先進医療の必要性を痛感していて、黒船来航(1853年)から明治維新へと続く激動期をリードしたといっても過言ではない。  
天然痘の災い   
天然痘の惨禍〜激しい症状、致死率の高さ   
   天然痘は、天然痘ウィルスが空気伝染して引き起こす感染症である。いったん患者が発生すると、80パーセント以上の者が感染し、致死率(患者数に対する死者数の割合)は、明治に入っても25パーセントを超えることがあり、江戸時代やそれ以前には罹患すれば、未痘児(未接種の子)の75パーセントが死亡するという厳しさがあり、とくに1歳以下の小児と妊婦の致死率が高かったので、悲惨を極めた。幸い命を取り留めても、顔面に残る痘痕や失明などの後遺障害は、人生を暗転させた。また、患者を出した家族は、人里はなれた土地への隔離や特別の療養のための散財を強いられ、一家離散の憂き目を見ることもあったという。   
   この病気は、高熱を伴って発病し、赤い小さな発疹が出、顔や手に始まって全身に及ぶ。やがて、膿汁を含んだ、いわゆる「おでき」(吹き出物)となり、瘡蓋(かさぶた)が出来る。それが取れると傷跡が残ることから、疱瘡とも痘瘡とも呼ばれる。この傷跡、つまり痘痕が「あばた」ともよばれ、「あばたもえくぼ」という諺を生んだともいわれる。   
   ちなみに、天然痘については、古来様々の呼称があるが、今日の医学書、専門書をはじめ法令及び公文書では、「痘そう(・・)そう」の用語で統一されている。ただ、本稿では、「自然流行の」という趣旨も含まれ、一般に分かりやすい「天然痘」を用いている。   
天然痘は大流行することしばしば   
   国内での流行状況を見るとき、明治前の記録は具体的数字の記載はなく、正確さを欠くが、1700年代の後半に、江戸や他藩で、人口の約20パーセント、つまり5人に1人の割合で死者を出したという記録がある。また、具体的統計数字のあるものは、明治以降のものに限られるが、1979年(WHOの痘瘡根絶宣言)までの約100年間に患者約34万人、死者9万人強、致死率27.24パーセントとなっている。この間の大流行期には、年間死者数が1万人を超えた年が3回ある。これらの年の致死率は、約25〜30パーセントにも上るほど熾烈な流行だった。   
ジェンナーによる牛痘種痘法。その確立が天然痘の恐怖から人類を解放した   
   天然痘は、このように、有史以来広く人類を苦しめてきた伝染病であり、有効な予防策はなく、世界中の医師たちもこの病気との闘いに苦戦してきた。その中でひときわ輝くのが、18世紀末におけるジェンナー(英国の医師)による「牛痘種痘法」の確立である。このことは、衆知の史実であるが、わが国でも、幕末(江戸時代末期)から明治初期にかけて、その導入及び普及のために、多くの医師をはじめ関係者がたゆまない努力を重ねた。
 今や、ジェンナーが開発し、世界に普及した「種痘」のおかげで、有史以来の人類の難敵「天然痘」が地球上から消え、その恐怖からも解放されているのだ。
 ただ、一抹の不安として残るのが、ひそかに遺されたウィルスのテロ行為への悪用の可能性。杞憂であることを祈らざるを得ない時代になったのは残念である。
 
―牛痘種痘法の伝播―   
  (1) 「種痘」は、天然痘の自然流行に備えて、そのウィルスを予め人体に感染させ、抵抗力を準備させておくという療法で、今日でいう「免疫療法」のはしりである。
 わが国には、「一度天然痘に罹れば、二度と罹らない、あるいは軽くて済む。」という経験則があったし、中国では、同じ考え方に基づいて、天然痘患者の「痘(おでき)」の膿汁や瘡蓋を治療の材料(「痘苗」と呼んだ。)に使った「人痘種痘法」(以下「人痘法」)が古来行われており、わが国の医師たちも試みていた。中国の古医書には、すでに「種痘」の用語があり、その手法説明の中に、「水苗種法」「旱苗種法」「痘苗」「選苗」「補種」などの表現が用いられており、種痘が植物の栽培と同じような観念で捉えられていたことを示す。
 ちなみに、人痘法の時代から、「種」は「植」と同義で用いられ、「痘(おでき)を植えつける」という意味で「種痘」と表現されていたようだ。現に、後述する「牛痘種痘法」(以下「牛痘法」)について、昭和の半ば過ぎまでも「植え疱瘡」という呼び方があったことと符合する。また、その伝来当時には、「種痘」は「接痘」ともいわれていたが、それは、種痘の根拠説明について「庭木の接ぎ木の考え方に例えて、オランダ人が『接』を用いている」からだともされていた。今日常用される言葉、予防「接種」に繋がる表現として興味深い。
 
 
  (2) 人痘法の場合、「痘苗」を鼻や口から吸入させたり、皮膚に傷をつけて塗リ込んだりして、免疫力を得るという手法で、残念ながら、他の病気を誘発したり、感染による死亡率が高く、また、その感染自体が自然流行のきっかけとなったりもした。幕末になって、この手法を改良して死亡率を改善することに努めた医者(福岡の緒方春朔)もいたが、その危険性ゆえに、実施を躊躇する者が多く、普及には至らなかった。   
  (3) ジェンナーは、英国で、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことにヒントを得て、乳牛の乳房の「おでき」の膿汁、つまり、牛痘液を「痘苗」として利用した牛痘法を開発、改良した。彼の論文の発表は、1796年。この手法は、やがて、画期的な療法として、ドイツでも試みられ、その後、世界各地へ伝えられた。ちなみに、英語の「vaccine」(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を指し、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源とされる。
 アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の情報も伝えられ、材料となる「痘苗」も到達していた。ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。
 当時は、「痘苗」の大量生産ができない時代。新鮮で有効なものを伝えるためには、牛痘の膿汁を人に接種し、出来た膿汁を次の人に接種するという、いわばリレー式に植え継ぐ方式(「人伝苗」)しかなかったので、海外の遠地へ伝えるためには、幾人もの健康な子どもを連れて、接種を続けながら航海をしたこともあったようだ。このようにして、中国では、かなり早くから牛痘法が行われ、漢訳の出版もなされていたにも拘わらず、ジャワ(インドネシア)経由の痘苗が日本へ到達したのは、1848年。ジェンナーの発明からほぼ半世紀も経っていた。
 
 
―わが国における種痘の伝来と普及―   
   わが国への種痘の伝来とその普及の時期は、(1)伝来前(2)伝来前後(3)明治維新後の三つに大区分して見ることができる。
 筆者は、このうち、幕末終期から明治維新にかけての時期は、わが国に種痘が根付いた、まさに「種痘揺籃期」ともいえる時期だと考えている。
 なお、以下で単に「種痘」というときは「牛痘種痘」を指す。
 
 
  (1)伝来前   
   鎖国時代、長崎(出島)を通じて、清(現中国)やオランダ経由の情報だけは入手できたので、わが国の医師たちも画期的な牛痘法のことをよく学ぶ機会があった。出島のオランダ商館の館長や医師(館医)たちが長年にわたって牛痘法の情報を伝え、痘苗の輸入にも努めたからだ。だが、1823年に初めて痘苗が届いて行われた種痘は失敗に終わり、その後も試みは続けられた。
 後には、シーボルト(館医)による指導などもあって、「牛痘法」の習得は進み、あとは新鮮な「痘苗」の入手が最大の課題となった。しかし、痘苗を植えつけた子どもを伴っての入国など考えられなかった時代のこと、医師たちは、有効な「痘苗」が到着することをひたすら待つだけで、それがやっと実現・成功したのが、1849年だった。
 
 
   これらの努力以前にも、わが国に、牛痘法に関する情報や痘苗が伝わる機会がなかったわけではない。長崎では、1800年代初めには、牛痘法に関する記事に接した通訳もおり、その後、通航を求めた英国商船から情報や痘苗の提供があったりしたが、鎖国ゆえに実現していない。このほか、牛痘法を習得し、あるいは痘苗等をも携えて帰国した漂流民の例もあるが、国内での普及に繋がらなかった。また、国内で「牛痘」に罹った牛を探し出し、あるいは子牛を飼育して「痘苗」を作り出そうと試みた医師たちもいたが、結局、成功していない。  
  (2)伝来前後   
   1848年、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗(牛痘)を持参したが、その効力がなかったため、この時の種痘は失敗し、改めて、翌1849年ジャワから輸入したもので「善感」(免疫力の獲得)に成功した。  
 わが国側では、医師楢林宗建(佐賀藩)が、「痘痂」(瘡蓋)輸入を提案するなどしてこの輸入に深く関わった。彼は、良好な痘痂がモーニケのもとに届いたという情報を受けて、自分の息子を伴って長崎の商館を訪れ、彼への接種を依頼した。この接種が善感に成功し、佐賀藩内での普及に繋がったが、ほぼ同じ時期に、清(現中国)ルートでの入手を模索した医師たち(日野鼎哉・笠原良策ら)もいて、長崎での結果と「痘苗」は、直ちに彼らにも伝わり、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まることになる。この裏には、シーボルト以来関係の深かった蘭学医たちの人脈が物をいい、その後の組織的かつ迅速な普及に大いに寄与したとされる。
 
 
   ただ、国内での伝播にあたっても、人から人へ植え継ぐために、健常児を伴って雪の峠越えをしたという壮絶なドラマもあった(福井藩の笠原良策の例。吉村昭著「雪の花」参照)。また、痘苗の確保と分配には組織的活動も必要で、中心的役割を果した医師が緒方洪庵だった。彼は、長崎で学んだ後、大坂に適塾(大阪大学医学部の前身)を開き、多くの蘭学者を育てた。   
    一方、江戸では状況が違った。幕府は、蘭学が盛んになり幕藩体制に影響を及ぼすことに極度に神経を使い、蘭書の翻訳出版の規制強化を逐次図っていた。加えて、当時の医療界では漢方医の影響力が大きく、とくに彼らの牙城である幕府医学館の働きかけで、1849年3月に「蘭方医学禁止令」が布達された。その後、開国の動きの中で医学館の勢力が衰え、一方幕閣の中にも蘭方医学の優秀性を認め、種痘の実施に協力する者も出てきた。1858年には、蘭方解禁となり、伊東玄朴ら蘭方医が奥医師(幕府の医官)に登用されるなどして蘭方医の立場が好転する。これを好機と捉えた伊東玄朴、大槻俊斎(仙台藩)ら83名の蘭方医たちが発起・出捐して「お玉が池種痘所」を設置した。江戸で堂々と接種を始めることができたのは、長崎での初の善感の約9年後のことだった。  
   ちなみに、この種痘所は、やがて幕府直轄とされ、のちに西洋医学所、さらに医学所と改称し、西洋医学を中心とする医育機関としての機能を備えた。維新後も同じ役割を果たすこととなり、これが後に、今日の東京大学医学部の源流となった。   
  (3)明治維新後   
   種痘の導入と普及は、近代医学導入の象徴となり、維新後の近代化政策の中心の一つになった。
 1870年、維新政府は、直ちに種痘医の免許制度を定め、痘苗を頒布することになり、これらの推進及び医制の確立を目指し、長与専斎をその任に当たらせた。彼は、牛痘法普及の先進地の一つであった大村藩(今の長崎県大村市)の出身、西欧に学んで、医育制度の整備や上下水道の整備をはじめ医事公衆衛生分野での近代化を進めた。(ちなみに、彼は、荘子の書にある「衛生」をとって、「公衆健康保護」の意味で用いるようにしたという。)
 彼が、種痘医の確保と並んで重視したのは、痘苗、つまり、ワクチンの確保対策だった。彼は国内での継続生産を目指し、人伝苗を牛に戻して作る「再帰牛痘苗」の製造に成功するとともに、「牛痘種継所」を設け、全国各地へ計画的に配布するシステムを整備した。大日本私立衛生会(現日本公衆衛生協会の前身)を設立して、痘苗の生産配布に当たらせたことも画期的なことであった。
 
 
―種痘制度の整備とその後―   
定期の種痘   
   1874年には、政府は、定期の種痘を定めた種痘規則を布達している。さらに、1876年には「天然痘予防規則」が制定され、定期接種(強制)が始まり、これは1909年の「種痘法」に引き継がれ、さらに第2次世界大戦敗戦後の1948年の予防接種法制定後も継続した。
 天然痘の流行状況をみると、明治・大正から昭和にかけて何度も大流行を見たが、種痘の普及により全体的には次第に減少して行った。その後は、敗戦に伴う海外からの邦人大量引揚げの影響による大流行を見たくらいで、1956年以降は国内の自然発生は皆無となったが、依然定期接種は続けられた。
 
 
種痘の廃止、天然痘の根絶宣言   
   1970年代に入り、種痘後脳炎の多発が指摘され、訴訟も提起されたりして、予防接種への不安と不信を呼ぶことにもなって、定期接種は一時停止(後に1976年に廃止)されて、救済措置が急務とされた。(後に、種痘以外の病気をも含めた予防接種法の対象疾病について、「予防接種健康被害救済制度」が確立され、「予防接種リサーチセンター」などが設置されることとなる。ちなみに、その後もたびたび法整備がなされてきたが、平成25年通常国会にも、更なる制度拡充のための改正案が提出され成立し、同年4月1日施行された。)   
   国際的には、アジア、アフリカ地域などの一部になお天然痘流行が見られる地域が残っていたので、WHO(世界保健機構)は、1958年に「天然痘根絶計画」を決議、対策を強化(1967年)して、1980年に至って「天然痘根絶宣言」を行い、ここに人類は天然痘の恐怖から解放された。この根絶計画のプロジェクトリーダーの役を日本人医師(蟻田功)が担ったこと、また、わが国の財団(旧日本船舶振興会・現日本財団)による格別の資金援助があったことも特筆に値する。蟻田によれば、良質なワクチンの各国からの提供と簡単確実な接種法の採用(二叉針)に腐心し、多国参加の国際協力によって計画は達成できたという。(「地球上から天然痘が消えた日」)   
   いま、インフルエンザ・麻疹(はしか)・風疹などの流行期に入ると、「予防接種」や「ワクチン」という言葉が、マスコミにも頻繁に登場し、日常的に馴染みの深い言葉となっている。しかし、「予防接種」の始まりが、「種痘」であったことを知る人はどれ程いるだろうか。そもそも、「種痘」という言葉自体が、死語となりかけているのだ。かつては俳句の春の季語とされるほど、私達の生活の中に定着していた言葉だが、今は歳時記の中からも消え、人々の記憶からも遠ざかっている。   
―若山健海の活動―   
  (1) 時代は200年近く遡る。若山健海は、故郷(武蔵国入間郡神谷新田・現在の埼玉県所沢市)を後にし、長崎で西洋医学を修めた。後に、日向国の坪谷(現在宮崎県日向市)で医業を開き、種痘活動を進め、その記録として、二つの種痘人名録を残している。
 僅かな記録ではあるが、種痘に関する彼の知識や当時の活動の様子を窺い知り得るものだ。種痘伝来の黎明期ともいうべき幕末の長崎で、彼は、シーボルトの弟子たちに医術を学んでいる。長崎で最初に種痘に成功した楢林宗建にも学び、また、その縁を通じて貴重な痘苗を早期に入手し、日向国で初めての種痘に成功し、その後も普及に努めた。すなわち、痘苗のわが国への到来の翌年、1850年の春、「宮崎中村」(現在の宮崎市)を皮切りに種痘を始め、記録に残る限りでも、明治6年までの24年間に、約2,000人に接種している。その際、長崎ルートで入手した痘苗を大事に植え継ぐほか、習得した技術により、保存苗を活用したりした節もある。
 
 
   当時、全国各地に広がった種痘活動を支える上で、「痘苗」を途切れずに植え継ぐことが大課題であったが、これを可能にしたのは、蘭学医たちの人脈であり、日野鼎哉、笠原良策、緒方洪庵らの計画的接種活動と、とくに緒方洪庵が推進した痘苗の分配システムだった。健海自身の接種も、かなり計画的に進められたようであり、難題の痘苗確保に当たっても、様々の工夫が見られる。長崎で師事した緒方洪庵との縁の活用もあリ得たと筆者は見ている。  
   大坂や京都などの先進地域での種痘活動は、かなり組織化されており、訓練を受けた医師のみが、応接方、鑑定方、接種方などという役割分担を決めて、被接種者への説明、観察や接種を行っていた(福井藩の除痘館の例)という。これらの活動を健海一人が処理していたと考えれば注目に値するのだ。
 彼の活動は、先端西洋医学の導入を意味するが、当時の僻村で種痘が受け入れられた根底には、単に「天然痘」への恐怖だけではなく、地域の人々の彼への信頼があったと思われる。彼自身、自分の幼い2児(うち、長男立造が牧水の父)や可愛い孫娘(牧水の姉)にも率先して接種を行うこと等を通じて庶民の理解と安心を広げたようだし、被接種者の保護者などの職業、地域的分布や接種の日程などから見ても、慎重確実に作業を進めたといえよう。
 彼は、種痘史上に特に名を残しはしなかったが、市井で種痘普及に努めた多くの医師の一人であり、種痘揺籃期における群星の一つとして、記憶に留めておきたいと思う。
 
 
―余話―   
   公衆衛生の制度や体制が未整備の時代であったので、種痘の普及活動には様々の困難が伴ったが、医者達の活動を支持・支援した人々も多かったと考えられる。ここでは、具体的に寄付などの形で財政的支援が行われた特徴的な例として、2つを挙げておきたい。   
  (1)熊谷直恭の例:1849年10月、京都まで痘苗が届いた後、当時京都にいた医師の楢林栄建(楢林宗建の兄)は、種痘所「有信堂」を設置し、熊谷直恭(鳩居堂4代目主人)等の協力を得て、事業を進めたという。直恭は様々の社会貢献活動をした人物で、この事業が民間の事業として推進されたことは注目に価する。   
  (事業は、やがて維新政府下の京都府に引き継がれ、施設は、後に教育塾となり、ひいて、明治最初の小学校の基となったという。)   
  (2)浜口梧陵の例:痘苗の伝来後、10年近くも経った1858年になって、江戸で初の「種痘所」が開設されたときの話。当初伊東玄朴ら83名の医師たちが発起・出捐して建設されたものだが、間もなく焼失し、その再建にあたって、浜口梧陵が多額の寄付をしたとされる。
 彼は、防災に関する社会貢献でも注目される人物である。1854年の安政南海地震の際に、高台にあった自分の稲むらに火を放って、駆けつけた村民達を高台へ誘導し、津波から多くの命を救った老人がいた。梧陵がそのモデルとされる。
 災害後には私財をなげうって、同士とともに巨大な堤防建設に取り組み、これが、1946年の昭和南海地震のときには役に立ったという。老人の行動は、戦前の教科書で「稲むらの火」として紹介され、また堤防は「広村堤防」として現存し、防災伝承の貴重な好例として注目されている。 
 
[参考] 既公表の拙稿掲載誌等は、次に掲げるとおり。ご参照いただければ、幸いである。
  (1)「若山健海の『種痘人名録』を読み解く」(沼津市若山牧水記念館館報38号)
     (http://web.thn.jp/bokusui/ 参照)
  (2)「若山健海と二つの種痘人名録」(雑誌「牧水研究」2012年第11号参照)
  (3)「若山健海と予防接種」(「本物語」第30号)(http://39-books.com/ 参照)
  (4)「『若山健海と予防接種』のその後」(「本物語」第37号) (同上)
2013.4.1  伊藤 卓雄
(元 公害健康被害補償不服審査会委員)
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