下妻街道 道中記
(2)八条から野田市山崎まで
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 下妻街道の旅、2回目は和井田家住宅前から。
中川に沿って北上し吉川橋で中川を渡ると吉川市。10分ほど東方向に歩き、二郷半領用水に沿って再び
北上。 前新田橋交差点まで来たら県道326号に入りかれこれ1時間。玉葉橋で江戸川を越えると千葉県・
野田市。しばらく歩くと日光東往還に合流して旧山崎宿に入る。

 吉川橋を渡ると江戸時代から続く料亭などがあるが、その先から日光東往還に合流するまでの2時間
ほどは見どころが少なくちょっと単調な街道歩きとなってしまう。
旧山崎宿の中ほどに東武アーバンパークライン(旧東武野田線)の梅郷駅があるので今回の旅はここまで。
街道地図

(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下

平成31年2月22日

 和井田家住宅からちょっと戻ると旧道が残っている。旧道に入り40~50メートル歩くと小さな石塔が2本。残念ながら文字が読み取れない。その先数分でバス通りに合流するが、その合流点にポツンと「馬頭観音」(左)が1基。

 バス通りを数分歩き左の道に入ると「八条殿社古墳」(右)が見られる。新編武蔵風土記稿に「八条殿社 塚上ニ社ヲ建 内ニ神体として古碑二基ヲ置 ・・・・・・」と記されているが、明治42年(1909)に廃社。 度々の発掘でかつての面影は失われてしまったが、八潮市内唯一の古墳だそうだ。
八条殿社古墳にまつわるこんな昔話が。 馬にまたがる八条様

 街道に戻り5分ほど歩くと八潮市八条から草加市柿木町に入るがその市境に鎮座しているのは「八条八幡神社」(左)。 宝徳元年(1449)に八幡大神・久伊豆大明神・氷川大明神を勧請し祭祀したのが始まり。先ほど見てきた八条殿社の御神体であった古碑の一つ弘安7年(1284)の板石塔婆が宝物として保存されている。

 草加市に入って10分ほど歩くと左手に鎮守の森が広がっているが、ここは「女体神社」(右)。ドキッとする神社名だが、天正3年(1575)に豊田城(茨城県石毛町)城主だった豊田治親が討たれ、逃れた夫人と子供が当地に土着。信仰していた筑波山女体神社の分霊を勧請し創建したという。 境内には柿木町出身の作家、豊田三郎文学碑が据えられている。

ところで、八条八幡神社がある八条村と女体神社がある柿木村は大変に仲が悪かったそうで、大境道という昔話がそれを伝えている。

 女体神社から街道に戻ると、すぐ先に「音店河岸と下妻街道」(左)と刻まれた石碑が建てられている。 その奥は中川の堤防だが、かつては音店河岸があった場所。古利根川(現・中川)への落とし(排水路)を利用した河岸で江戸時代半ばから明治にかけて栄えていたが、今はその面影は全く無い。

 その先の道路際に「下妻街道碑」(右)が建てられており右へ下る細い道があるが、この道が旧道。中川に沿って北上するが地図上では500mほど先で行き止まり。東漸院に寄り道したいので5分ほど歩いたら一般道へ。

 東漸院は室町時代(1500頃)に開山したと伝わる古刹で、草加市内最古の寺だそうです。

 その入口にあるのは「板碑型六地蔵」(左)。写真では分かりにくいが地蔵が三体ずつ縦2列に陽刻されている。 万治2年(1659)の造立で、これも市内最古の六地蔵である。

 東漸院は寛政年間の火災で本堂を焼失しているが山門と鐘楼は火災をまぬがれ今日に残っている。その「山門」(右)は天明2年(1782)の創建といわれる四脚門。

東漸院を出て街道に戻り4~5分歩くと越谷市東町に入るが、この地はかつての千疋村。今でも農村センターや石材店の店名に 千疋(せんびき) が使われている。

 その旧千疋村に伏見稲荷の分霊を祀った「伊南理神社」(左)という見慣れない名前の神社がある。創建年代は不詳だが正徳6年(1716)に京都の吉田家から受けた幣帛が現存していることからこの頃の創建と考えられる。元々は稲荷社と称していたようだが明治以降に「伊南理」と改めている。

 伊南理神社隣の廃寺となった東養寺墓地内にある勢至堂に天正3年(1575)12月銘の「廿一仏板石塔婆」(右)が保存されている。 比叡山延暦寺の護法神、日吉山王二十一社の本持仏を種字で刻んだもので高さ130センチという大きなもの。

 下妻街道は中川に沿ってさらに北上。JR武蔵野線のガード下を通り、吉越橋の下を通り、次の吉川橋を渡るのだが堤防の工事、吉川橋の架け替え工事などで旧道が一部消滅。
吉川橋の辺りに越谷、草加と吉川を結ぶ「かご場の渡し」があったが、明治の初めに木製の徳江橋(現吉川橋)が架橋され渡しの役目を終わっている。

 「吉川に来てなまず・うなぎを食わずなかれ」と言われたほど川魚料理が盛んだった吉川で、天保8年(1837)創業という「福寿屋」(左)が吉川橋を渡った左側で今も川魚料理を提供している。

 その先に見える寺院は永仁3年(1295)開基という古刹・延命寺。 その山門前に「庚申塔」(右)が並んでいるが、右端の文化2年の文字庚申塔は道標も兼ねており、側面に「右松ぶし ほうし花道」「左こしがや 江戸道」と刻まれている。

 吉川でもう一軒の川魚料理の老舗が「糀屋」(左)。こちらは江戸開府時の創業で400年の歴史を持ち、近藤勇や勝海舟、板垣退助なども訪れているという。きっとなまず料理を堪能したのだろう。

 糀屋対面の道を入って数分歩くと吉川の総鎮守「芳川神社」(右)。文治3年(1187)に時の武士団吉川氏が再興したという古社。なまず料理 が売りの吉川、なんと なまずのお守りが。下妻街道はこの神社の裏手を通っている。

 芳川神社を出たら5~6分歩いて左に曲がり「二郷半領用水」(左)沿いを北上。この用水路は米作と水害対策のために寛永年間(1624~1643)に開削されたという古いもの。二郷半とは吉川郷、彦成郷の二郷に50戸に満たない小さな集落を合わせて 二郷半 ということだそうだ。

 前新田橋交差点まで歩いたら右へ曲がり県道326号を40~50分、鍋小路交差点を左に曲がっていく。10分ほど歩くと江戸川に架かる「玉葉橋」(右)を渡るが、この橋名は埼と千を繋ぐので「玉葉」。橋の先は千葉県野田市。ここには すさきの渡し(野田側では ながれの渡し) があり昭和の半ば頃まで続けられていたという。

 玉葉橋を渡り30分弱歩くと左に入る旧道があるのでそちらへ。入ってすぐに庚申塔などの「石塔が4基」(左)。その中に大きな袋を担いだ大黒様と甲子講中と刻まれた甲子(きのえね)待塔がある。今は庚申待ち、甲子待ちの風習がすっかり途絶えてしまった。

 旧道を4~5分歩いたらちょっと寄り道をと向かった先は「海福寺」(右)。 徳川家康の家臣であった岡部長盛が下総山崎藩を立藩、慶長4年(1599)に母の祖先の菩提を弔うために山崎藩陣屋跡に創建したと伝えられている。山門前に「岸和田城主岡部長盛公開基」と刻まれた石標があるが、岡部長盛は後に岸和田藩に移封となり、以降江戸末期まで岡部家が岸和田藩主であった。

 街道に戻り5分ほど歩くと山崎交差点で日光東往還(流山街道)に合流。この交差点を左に曲がって行く。

 曲がった先は旧山崎宿。5分ほど歩いた先の梅郷駅西口交差点の両側に 秋葉常夜灯型 の「山崎宿碑」(左)が建てられている。 文化3年(1808)の山崎宿絵図に、道路中央に秋葉常夜灯が描かれていたそうで、山崎宿の存在を後世に伝えようと秋葉常夜灯型のモニュメントを設置したのだそうだ。

 この交差点を右に曲がると東武アーバンパークライン(旧東武野田線)の梅郷駅があるのでこの駅から帰路に。
次回は利根川を越えて常陸国(現茨城県)に入るのだが、街道先の利根川には渡し舟はもちろんだが橋も無い。困ったな~

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