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三条大橋さんじょうおおはし.
 中山道・東海道の終着点である三条大橋は、嵐山の渡月橋と共に
京都を代表する橋。 この橋がいつ頃架橋されたのか定かではないが、
天正18年
(1590)に豊臣秀吉の命で改修された記録がある。
 野次さん、喜多さんも十返舎一九によってこの橋を渡っているが、
今も多くの旅人がこの橋を目指して、中山道・東海道を歩いているだろう。

平成22年12月9日    三条大橋を渡ったら、野次さん・喜多さんが旅姿で待っていてくれました

 大津宿を出て、あちらこちら見学しながらかれこれ2時間。三井寺観音道道標前を通り過ぎると、「京都市」(左)の表示が。
日本橋を出発して530km、ついに京都入りです。

 しばらく歩くと街道際に六角形の建物があるが、これは江戸時代の作と云われる「徳林庵六角堂」(右)。

 祀られているのは小野篁(おののたかむら)が彫った六体の地蔵のうちの一体。後白河天皇の勅命により平清盛・西光法師らによって保元2年(1157)、各街道の入口に六角堂を作り一体ずつ安置したのであった。

 京阪山科駅入口の交差点を過ぎると、ビルの一角に「明治天皇御遺跡」(左)と刻まれた石碑が建てられている。

 隣りの説明碑によると、明治天皇が、明治元年9月の御東幸、同2年3月の御環幸及び同11年10月の御環幸の3回、この地にあった「奴茶屋」に御駐輦されたことを記念して建立した石碑なのだとか。

 その先のT字路に「五条別れ道標」(右)が建てられている。「右ハ三条通 左ハ六条橋・・・・」と刻まれたこの道標は300年も前の宝永4年(1707)に建てられたもの。

 旧三条通りはまもなく府道の三条通りに合流して右へ曲がり、JR琵琶湖線の先から再び旧道に入って行くのだが、ちょっと寄り道を。

 琵琶湖線の高架下を通ると、すぐの右側に「天智天皇山科陵入口」(左)がある。あまりに見事な紅葉に思わず1枚。
真っ直ぐな道の突き当たりが「天智天皇山科陵」(右)である。

 大化の改新を行った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は都を大津京(近江国)に遷都し天皇に即位。しかし46歳という若さで崩御。

 「扶桑略記」によると、天智天皇が馬に乗って山科の里に遠出したが帰ってこず、数日後、履いていた沓が見つかったので沓の落ちていた所を御陵にした、という。

 街道に戻ると向こう側に立派な冠木門があり、整備された道が続いている。が、ここは旧東海道ではない。少し先の「左に曲がる細い道が旧東海道」(左)。間違える人が多いようだが、罪な冠木門だ。

 住宅街の中の細い道を7〜8分歩くと、京都へ向う最後の峠越えとなる上り坂。坂の途中に「亀の水不動」(右)が鎮座している。

 洞窟の奥にお不動様が、入口の亀の口からは清水が流れ落ちるという変わった水場だ。この先の日ノ岡峠道改修工事を行っていた木喰正禅上人が掘り当てた水場で、行き交う旅人の喉を潤してきた。

 日ノ岡峠を越えるこの旧道は入口を含めて旧東海道の表示が全く無い。初めて歩く旅人はかなり不安になる。

 亀の水不動前の坂道を上り、しばらく歩くと「旧東海道道標」(左)が。多くの旅人がほっとすると同時に、もっと手前に在ったらなーと思いながら通り過ぎていくのではないだろうか。

 ほどなく三条通りに合流するが、ここの公園に、これまで何度か目にした「車石」(右)が展示されいる。

 大津宿の札の辻から逢坂山、日ノ岡峠を越えて三条大橋まで約12km、牛馬車の通行を楽にするため、轍を刻んだ御影石をレールのように敷き並べたのだが、大変な工事だったろう。

 三条通りに合流したあと、「蹴上(けあげ)浄水場横」(左)の坂道を下っていくと「三条大橋」の道路標識が。

 この先の「蹴上」の信号Y字路を道成りに左へ曲がって行けば、20分ほどで三条大橋に到着である。

 信号手前の道路向こう側にポッカリ開いた「レンガ造りのトンネル」(右)が見えるが、ここを潜ると金地院・南禅寺が近い。せっかくだから寄り道を。地下鉄東西線の駅構内を通って向こう側へ渡るのが近道だ。

まず向ったのは徳川家康に重用され、黒子の宰相と呼ばれた金地院崇伝が再建した金地院

 見所はなんといっても特別名勝の「鶴亀の庭園」

 百武さんと言う方のブログに「さて、これは鶴島でしょうか?亀島でしょうか?」という問いかけがありますが、その「亀島」(左)と「鶴島」(右)を配した枯山水は小堀遠州の作。

 庭全体をカメラに収めることができなかったため、部分の写真になってしまったのが残念。 崇伝が伏見桃山城の一部を移築したという「方丈」の畳に座って、ゆったりとした気持ちで眺める庭が素晴らしい。

 金地院を出ると、すぐ先が南禅寺。
さっそく目に飛び込んできたのが「南禅寺三門」(左)。

 石川五右衛門に「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは小せえ小せえ・・・・・」と言わしめたこの三門は、藤堂高虎が大阪夏の陣で戦没した藩士の霊を弔う為、寛永5年(1628)に建立・寄進したもの。

 三門横の道を通って奥まで歩くと琵琶湖疎水の一部、「水路閣」(右)が見られる。寺の境内を横切るように作られたこの巨大な構築物も、今は歴史的建造物として景観によく溶け込んでいる。

街道に戻ったら目指すは三条大橋。その途中で目に入ったのは「三条白川橋道標」(左)。延宝6年(1678)の建立だという道標は京都最古。刻まれている文字は「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」。 

 この道標脇を左に曲がり川沿いに数分、路地を左に入った奥に「明智光秀の塚」(右)なるものがある。

 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に破れた光秀は、敗走途中に竹藪で農民に襲われ自刃。家来が光秀の首を落としこの近くまで来たが、夜が明けたためこの地に埋めた、と伝えられている。

 光秀塚から川沿いに戻り、ひょいと上を見たら「鍾馗様」(左)が。京都では屋根の上ではなくヒサシの上に置くのが一般的なのだとか。

  三条白川橋道標まで戻り鍾馗様を探しながら十数分、京阪三条駅上の広場にそびえる銅像は寛政3奇人の一人と云われた「高山彦九郎皇居望拝之像」(左)。

 江戸後期、諸国を歩いて勤皇を唱えた彦九郎は九州・久留米で自刃しているが、幕末の勤皇の志士に大きな影響を与えている。


ところで、京都には鍾馗様が多いと聞いていたので屋根を気にしながら歩いていたら、三条大橋まで行く間に結構沢山見つかりました。

 ついに到着、「三条大橋」(左)です。この儀宝珠が懐かしい。
東海道を歩いて三条大橋へ到着したのが4年前。今回は日本橋を出発して中山道を135里余(約530km)再び三条大橋へ。


 鴨川をちょっと下ると、安藤広重が描いた三条大橋とそっくりな昭和の「三条大橋」(右)が目の前に見える。

 「ついに到着してしまった」そんな思いで三条大橋の上から「鴨川」(左)を眺めると、東海道を歩いた4年前は川へ降りたりしながら周辺を30分もの間うろついていた事が思い出される。

 橋を渡ると、今回も旅姿のままの「野次さん喜多さん」(右)が待っていてくれたが、私の旅は終わってしまった。

 この後に簡単な「旅の記録」を追加しておきましたので、歩かれる方は参考にして下さい。



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