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第69宿大津宿おおつじゅく (後半)
 大津宿は琵琶湖水運による物資の集散地としての賑わいの他に、
三井寺の門前町として、また北国海道との追分でもあったこと等から、
その賑わいは江戸・日本橋にも匹敵するほどだったという。
 札の辻から上関寺町まで約8町、緩い上り坂の両側は旅籠が並ぶ
賑やかな宿場街だったそうだが、今は静かな町並みが続いている。

平成22年12月9日    三井寺と圓満院門跡にちょっと寄り道を

札の辻から北国海道に入り、さらに小関越えへと寄り道してしまったが、もう少し寄り道を続けようではないか。

 小関越碑の手前十字路を右に曲がると(天満宮から来た場合は左に曲がる)「長等(ながら)神社楼門」(左)の前に出る。朱鮮やかなこの楼門は明治時代後期の建築だが、均整の取れた美しい姿だ。

 門を入った左側で「平忠度(たいらのただのり)歌碑」(右)が見られる。
  さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな

 平家都落ちの際に、一度訪れたであろう長等の春の清盛を思い起こして詠んだのではないかと云われている。

 長等神社の少し先、道路から崖下を眺めると水路が見えるが、ここは「琵琶湖疎水」(左下)の出発点。水路はこの後すぐに長等山トンネルに
入り京都まで水が送られる。

 疎水上を通り越した先が国宝・重要文化財の宝庫「三井寺」

 寺の正式名は 「園城寺(おんじょうじ) であるが、天智・弘文・天武天皇の産湯に使われた霊泉があることから、「御井(みい)の寺」と呼ばれたのが通称名の由来なのだそうだ。


 案内パンフレットに従って「仁王門」(右)から境内に入って行くのだが、この仁王門は宝徳4年(1452)の建立。慶長6年(1601)に徳川家康により甲賀の常楽時より移築寄進されたのだとか。

 三井寺の代表はなんといっても「金堂」(左)である。仁王門を入った先にあるが、この建物は豊臣秀吉の北政所によって慶長4年(1599)に再建されたもの。桃山時代の名建築として国宝に指定されている。

 金堂の前庭左側にちょっと変わった書体の句碑があるが、これは
榊莫山揮毫による「芭蕉句碑」(右)。

 三井寺の 門たたかばや けふの月   元禄三年芭蕉

 三井寺の広い境内に散在する建物は、そのほとんどが重要文化財。平日は観光客が少ないので
ゆっくり時間をかけて見学したい寺院である。

 幾つか紹介すると
 ・近江八景 「三井の晩鐘」 で有名な鐘楼と梵鐘は金堂の横にある。
 ・「唐院四脚門」 は寛永元年(1624)の建立。

 ・「三重塔」 は室町初期の建築で、奈良・比蘇寺の塔であったが、徳川家康の寄進でここに移された。
 ・「微妙寺」 の「重要文化財・十一面観世音菩薩」は、本堂に上がって真近に拝観することができる。

 見学の最後は県指定の重要文化財である 「観音堂」(右) であるが、ここは西国十四番札所。線香の煙が絶えない。また、ここは高台であるため琵琶湖を望む景色が素晴らしい。

三井寺を出たら、すぐ隣の皇室ゆかりの寺である「圓満院門跡」(左)もぜひ見学したい。

 大変おおらかなお寺で、重要文化財である宸殿に入り、狩野探幽作の「障壁画」(右)を真近に見る事ができる。しかも写真撮影をいともあっさりと許してくれるではないか。

コメント:障壁画は写真技術で複製したもの。本物は国立京都博物館が所蔵している。

 圓満院には大津絵美術館が併設されているので、こちらの見学も。

 大津絵は江戸時代初期、大津の宿場で旅人に神仏画を描き売ったのが始まり。ユーモアに富んだ風刺画が人気であった。
長等神社参道と楼門前に大津絵の専門店がある。

圓満院には庫裏の横と鐘楼のそばの2ヶ所に芭蕉句碑がある。
 圓満院で買い求めたもので、
大津絵の代表的な絵柄である。
庫裏横の芭蕉句碑
  大津絵の 筆のはしめは 何佛   はせを
鐘楼そばの芭蕉句碑
 三井寺の 門たたかばや けふの月   翁

 三井寺と圓満院を堪能したので再び中山道の旅へ。

 札の辻まで戻ると、ちょうど電車が来たところであった。路面電車ではあるが、都電や市電ではない。4両編成の「京阪京津線」(左)が国道を走っている。

 街道の旅を続ける前にもう一箇所寄り道を。JR大津駅の横に「山吹地蔵」(右)(後ろに見える小さな祠)と句碑がある。木曽義仲を慕ってここまで来た山吹御前は秋岸寺境内で敵刃に倒れたのであった。

 傍らの句碑は佐治誠吉なる人物の句だそうです。
   木曽どのを したい山吹 ちりにけり

ちょいと寄り道してしまったが街道に戻って旅を続けることにしよう。

 札の辻から続く緩い坂道を上っていくと京阪京津線は国道を離れ、右へと曲がっていく。

 その先の歩道際に明治天皇聖跡と刻まれた石碑が建てられているが、この辺りが「本陣跡」(左)である。大津宿には2軒の本陣と1軒の脇本陣があったが、ここは大塚本陣があった場所。

 さらに坂道を上っていくと、先ほど分かれた京阪京津線の踏切向こうに「蝉丸神社下社」(右)が見える。ここは琵琶の名手蝉丸を祀る神社で、歌舞音曲の神として信仰されていた。

 鳥居をくぐったすぐ右側にあったのは「蝉丸歌碑」(左)。
 これやこの ゆくもかえるもわかれては
               しるもしらぬも 逢坂の関  蝉丸

 これがなんと、東国へ行く人も都へ帰る人も、知る人も知らぬ人も、
出会っては分かれてゆくという逢坂の関なのだなあ

 蝉丸歌碑の先にある「紀貫之歌碑」(右)に刻まれている歌は
 逢坂の関の清水に影見えて いまやひくらん望月の駒  貫之

その関の清水が歌碑の脇にあるが、今は水が湧き出てはいない。

 本殿の左手奥に見える燈籠は 「時雨(しぐれ)燈籠」(左) 。6角形で鎌倉時代の様式をもつ超一級の燈籠なのだとか。国の重要文化財に指定されている。


 燈籠のそばにある「正岡子規句碑」(右)に刻まれている句は
  木の間もる 月あをし 杉十五丈   子規 

 蝉丸神社を出て京阪線の踏切を渡った先の国道右側に「逢坂碑」(左)が建てられており、「逢坂」の由来が次のように説明されている。

 「竹内宿禰(すくね)がこの地で、忍熊王とばったり出会ったことに由来する」 と。
さらに 「平安時代には逢坂の関が設けられ、和歌に詠まれる名所であった」 とも。

 その先で国道1号と合流するが、まだ緩い上り坂が続いている。この辺は山と山に挟まれた谷底、「京阪京津線と国道1号に挟まれた歩道」(右)を歩くのだが、江戸時代はさぞや寂しい街道であったろう。

 ほどなく「蝉丸神社上社」(左)が国道の向こう側に見える。この神社には特に見所といったものはない。


 国道1号の坂道を上りきったところに「逢坂山関址碑」(右)と常夜灯が建てられている。平安時代中期以降、三関の一つと言われた「逢坂関」は京都防衛の要であった。

コメント:三関とは、逢坂関/不破関/鈴鹿関 である。

 逢坂山関址碑のすぐ先に、4年前に
東海道を歩いたときには無かった
ポケットパークが新設され、歌碑が
3基据えられているので紹介します。
これやこの
行くも帰るも別れては
知るも知らぬも
逢坂の関
     蝉丸
名にしおはば
逢坂山のさねかずら
人にしられで
くるよしもがな
      三条右大臣
夜をこめて
鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
            清少納言

旧東海道はここで国道1号と別れ右側の道を下っていき、蝉丸神社分社前を通って再び国道1号に合流。

 合流して5〜6分、「走井・月心寺」(左) と記された軒行灯が下がる小さなお寺がある。ここは歌川広重の東海道五十三次之内 大津に茶店が描かれているが、その茶店があった場所。

 茶店の左側に滾々と清水が湧き出る井戸が描かれているが、その井戸が門を入った目の前にある「走井」(右)。
説明板に平安末期の歌人藤原清輔の歌が紹介されている。

   走井のかけひの水のすずしさに
              越えもやられず逢坂の関
   清輔

旧東海道は国道1号を下りきった所で名神高速の下を通り、交番前から左の旧道へ。

 急に静かになった旧道をしばらく歩くと「追分道標」(左)があり、「みきハ京ミち」と刻まれている。ならば右の道を行けばよいのだ。

 ちなみに左側面には「ひだりハふしミみち」と刻まれているが、この道は東海道五十七次と言われる京街道で、京都を通らずに大阪まで行かれる街道であった。

 追分を右に入ってすぐの所の閑栖寺で、山門の上に「太鼓櫓」(右)を乗せた珍しい門を見る事ができる。江戸時代、東海道を行き交う旅人に太鼓で時を知らせたのだという。

 だらだら坂を下り、国道1号を歩道橋で横断するのだが、下を見ると「三条 の文字が」(左)。ついに三条大橋が射程内に入ってきた。


 歩道橋を渡って再び旧街道に入ると「三井寺観音道道標」(右)が見られる。道標の左側面には「小関越」と刻まれているが、この道は東海道の裏道で、北国海道に合流して大津宿の札の辻まで通じている。

 ちなみに、小関越え道から北国海道に入る手前で左に曲がると、その先が三井寺である。

 4年前に東海道を歩いたときは、三井寺道標と常夜灯の間に真っ赤な消防器具庫があったため「写真写りが悪いんだなー」と記したところ、地元にお住まいの飯田様から
「消防器具庫を移動させ掲示板に変えました」とのメールを頂きました。 少しでも町の景観を良くしようと努力してくださる。嬉しいことです。飯田様、ありがとう御座いました。

 まもなく京都。 三条大橋までもうひと踏ん張りだ。



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