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第68宿草津宿くさつじゅく
 草津宿は遠く平安時代から東海道と東山道(後に中山道)の追分宿として
賑わっていたが、江戸時代に入ると本陣2、脇本陣2、旅籠70軒余という
大規模な宿場に発展。当時の本陣が現存しており、宿場時代の名残りを
今に伝えている。

平成22年12月8日  ついに中山道から東海道に入りました。しかしこのまま中山道として旅を続けます。

 守山宿の最後に立ち寄った大宝神社を出たら道成りに20分。
葉山川を渡った旧中山道は左から近づくJR琵琶湖線と草津線で分断されてしまうので「線路下のトンネル」(左)を通って向こう側へ。

 トンネルを出たらすぐに右へ曲がって線路沿いを歩き、県道の高架下を抜けるとその先が「伊砂砂(いささ)神社」(右)である。

 遠く平安の昔、疫病沈静のために大将軍を祀ったのが始まりとか。
桧皮葺の本殿は室町時代の応仁2年(1468)に建立されたもので国の重要文化財に指定されている。

 ほどなくJR草津駅に通じる道を横断するが、その先は「アーケードの施された商店街」(左)。これまではひなびた街道ばかりを歩いてきたが、この近代的な商店街も皇女和宮が通った中山道。

 商店街の中ほどを左に曲がったすぐの覚善寺門前に「右東海道・左中仙道」と刻まれた「明治の追分道標」(右)が立っている。

 この先の旧草津川隧道が明治19年に開通すると、それまで旧草津川の向こうだった東海道との追分がここに移り、同年、この道標が建てられたのであった。

 商店街が終わった先のトンネルが「旧草津川隧道」(左)で、上は天井川である旧草津川。

 この川は天井川であるが故に浸水被害を繰り返しており、ついに昭和46年(1971)、新草津川に付け替えが行われ、旧草津川は廃川。

 トンネルを出てすぐの右側坂道を上ると、水の流れていない「旧草津川」(右)を見ることができる。

 


 トンネルを出た所が江戸時代の「草津追分」(左)で、京都側から来ると右へ曲がる道が東海道、真っ直ぐ来る道が中山道だ。

 現在はトンネルを通って追分まで歩けるが、江戸時代は旧草津川の土手を上り、川を渡って再び土手をおりて草津宿に入っていった。

 その様子が「木曽海道六拾九次之内 草津追分」(右)に描かれている。板橋を渡った旅人の向こうに、民家の屋根だけが僅かに見える。

 追分には京都に向って左側に「追分道標」(左)が設置されている。
文化13年(1816)に建てられたもので、刻まれている文字は「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」。

 この場所は京都を旅立った旅人が中山道と東海道にそれぞれ分かれていった場所であり、また中山道を旅してきた旅人が東海道に合流して京都へ向った場所でもある。

 右側は「高札場跡」(右)で、小さな高札が復元されている。

 東海道との合流点向こう側、公民館前の街道際にある石碑は「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」(左)。
 「近江路や 秋の草つは なのみして
           花咲くのべぞ 何処ともなき  覧富士記」

近江路を草津まで来たが、草花が美しい野辺を想像していたのにずいぶん違うものだ。

 斜め先が現存する「草津宿本陣」(右)で、当時の貴重な資料も多数残されている。その中の大福帳によると、吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮や土方歳三、はたまたシーボルトなども宿泊したという。

 本陣斜め向かいが「脇本陣跡」(左)で傍らに脇本陣跡碑も建てられているが、今は観光物産館(陣そば52番)

 脇本陣跡の数件先がもう1軒の本陣跡なのだが、田中九蔵本陣跡と書かれた紙が下がっているだけ。脇本陣跡との落差が大きすぎる。

 街道はこの先で再びアーケド商店街となるが、その中ほどの「街道交流館」(右)を見学してみると良い。皇女和宮の昼食献立が再現されている。 「豪華絢爛」 ではなく一汁4菜の質素なもの。

 アーケード商店街の終わりに「太田酒造」(左)という造り酒屋があるが、ここは太田道灌の末裔だとか。蔵前に積み上げられたこも被りは道灌、そして後ろの蔵は「道灌蔵」。

 アーケードを出て数分、県道を横断した先の神社は立木神社。その境内に滋賀県で最も古いという「石造道標」(右)がある。

 「みぎハたうかいとういせミち ひたりは中せんたうをた加みち」と刻まれたこの石碑は、文化13年の追分道標(現在の追分道標)以前のもので延宝8年(1680)の建立だとか。

 街道沿いに真っ白に塗られた地蔵様が。なんとも可愛い地蔵様だが、その先でも何回か見ることが出来るのでまとめて公開。
8月の地蔵盆に子供達が集って地域のお地蔵様を白く化粧するのだそうだ。昔からの風習を子供達が受け継いでいく。いいですなー。

 その先の新草津川に架かる矢倉橋を渡りしばらく歩くと、瓢箪を売る店の前に大きな道標が1本、「やばせ道道標」(左)である。

 ここは琵琶湖の矢橋湊へ通じる分岐点で、かつては「姥が餅」を売る茶店があった立場跡。歌川広重の「東海道五拾三次之内 草津」の風景にこの道標が描かれている。

 この先10分ほど歩くと旧中山道は国道1号を斜めに横断。横断した先の上北池公園に「野路一里塚跡碑」(左)が建てられており、傍らには小さな小さな一里塚が。

旧中山道は上北池公園横の県道をさらに斜めに横断。静かな街道を歩いていると、平清宗のことを記した説明板が民家の塀に。

 遠藤家の庭奥に「清宗塚」(左)なるものがある。平宗盛の長男・清宗はこの地で斬首。首は京都に送られたが、胴はここに葬られたそうだ。時は文治元年(1185)、以来遠藤家が塚を守ってきたのだとか。

コメント:鏡の宿で、平宗盛父子が処刑された平家終焉の地を紹介したが、ここの説明板には、長男清宗がここで処刑されたと説明されている。

 数分先の真新しい鳥居を潜った奥にある新宮神社は宝亀元年(770)の創建という歴史ある神社。国指定重要文化財の「本殿」(右)は戦国時代の大永2年(1522)に建築されたもの。

 街道に戻って7〜8分ほど歩くと野路の玉川跡に小さな泉が復元されている。ここは日本六玉川の一つとして歌枕に詠まれた名勝地。 萩の名所でもあったことから「萩の玉川」とも言われている。

 その一角の石碑は「源俊頼歌碑」(左)。
  あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり

 
しばらく歩くと小さな島がある池が。 島には弁天様が祀られていることから「弁天池」(右)と呼ばれている。地元の人の話によると、狸の親子が住み着いており、夜な夜な石橋を渡って町に遊びに来るのだとか。


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