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第67宿守山宿もりやまじゅく
 「京発ち守山泊り」と言われた守山宿は、中山道東下りの旅人が最初に
泊まった宿場。旅籠が軒をつらね大変な賑わいだったようだ。

 「守山」という地名は、街道沿いに今も残る東門院が、比叡山延暦寺の
東門を守る目的で創建されたことから名づけられたと云われている。

平成22年11月9日   多くの街道が交わる滋賀県ですが、現存する一里塚はたったの1基でした。

鏡の宿を出てあちらこちら見学しながらかれこれ2時間。街道際の鳥居から参道に入り、国道8号を横断するとその先は稲荷神社

 稲荷神社の両隣は若宮神社と「古宮神社」(左)。このうち古宮神社は室町時代の建立と考えられており、重要文化財に指定されている。 屋根は最近あまり見かけなくなったこけら葺きという伝統的造り。


 街道に戻り先へ行くと、どの辺だったか記憶が定かではないが、ワンちゃんがじっとこちらを見ている。 思わず一枚。
 「柴犬はかわいいね〜」(右)。

 ほどなく風情ある萱葺き屋根の家が一軒。杉玉やこも被りは見えないが、ここは造り酒屋の「曙酒造」(左)。

 曙酒造の先で新幹線をくぐり、JR野洲駅へ通じる道路を斜めに横断する道が旧中山道.。横断した左側にも萱葺き屋根の民家が一軒。

 その先5〜6分の五差路向こう側、野洲小学校正門右に「中山道・外和木の標(しるべ)(右)が掲示されている。かつて外和木と呼ばれたこの地は大化の改新以前からの重要な街道であったそうだ。

 小学校沿いを数分歩いた先の3差路に「朝鮮人街道」(左)と記された道標がある。中山道から分かれるこの道は朝鮮通信使が通った道で、近江八幡を経由して鳥居本まで約41km。再び中山道に合流する。

 朝鮮通信使:室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮王国から将軍に向けて
         送られた使節。


 3差路から1〜2分、交差点際に「背くらべ地蔵」(右)が鎮座している。この地蔵さんは鎌倉時代のものだが、子を持つ親たちが「我が子もこの地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせたのだとか。

 その先の変則4叉路右側にある蓮照寺「道標・領界石」(左)が3本。左の大きい道標は先ほどの朝鮮人街道分岐点にあったもので、刻まれている文字は「右中山道 左八まん道」。

 この先は「ひなびた街道」そんな雰囲気の中をしばらく歩き、JR琵琶湖線のガード下を通って野洲川橋へ。

 JRガードのすぐ先、十輪院の右脇に「芭蕉句碑」(右)がある。
   野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす  芭蕉翁

 十輪院の先が「野洲川」(左)であるが、この川は、かつては「近江太郎」と呼ばれたほどの暴れ川。今は放水路が出来ておとなしくなったが、海ではなく琵琶湖に流れ込んでいる。

 野洲川橋を渡りしばらく歩くと「馬路石邊(うまじいそべ)神社」(右)の参道が真っ直ぐ奥に向っている。白鳳3年(675)年の創祀というから1300年以上の歴史。

 神社門前の広場に落ちていた松ボックリの大きさにビックリ。通常の3〜4倍もの大きさだ。

 街道に戻り県道を横断すると一方通行の細い道となるが、この先が守山宿。この辺りを古くは「吉水郷」(左)(現 吉見)と称し、ゆたかな森林と水に恵まれ、近江国景勝80ヶ所の一つと紹介されていたとか。

 数分先に「帆柱観世音碑」(右)が建てられているが、右側面の文字は「本はし羅可んせおん」(ほばしらかんぜおん)かな?

 その帆柱観世音は慈眼寺の御本尊。縁起によると「最澄が唐の国で修行した帰り、海難に遭遇したが十一面観音に救われたことから、海難で折れた帆柱で十一面観音を彫り、弘仁元年(810)、吉見の里に安置した」のだとか。

 さらに数分先の交差点左側に「いしべ道道標」(左)が建てられている。「すぐ」とはまっすぐのことだが、正面に刻まれている「高野郷新善光寺道」は東海道石部宿にある新善光寺への参詣道のことである。


 そのすぐ先にある重厚な建物は「宇野本家酒造跡」(右)。宇野宗佑元総理大臣の実家だった建物で、現在は守山市の管理。

 

 その先のT字路に「本陣推定地碑」(左)が建てられているが、説明板に「小宮山九右衛門本陣があった場所と推定されている」とある。

 ところで、下調べではこの辺りに「甲屋之址碑」があるはずだが、どうしても見つからない。見つからないはずだ。実は甲屋之址碑の上に「本陣推定地」と刻んだ石板が貼り付けられていたのだった。

 隣に「古井戸」(右)があるが、この井戸は側溝工事に伴いここに移転したもので、石組みは天保4年(1833)以前のものだそうだ。
コメント:中山道文化交流館の管理人の話では、甲屋は架空の話なので、この1月(平成22年)に「甲屋之址碑」の上に本陣推定地碑を貼り付けたのだそうだ。

 本陣推定地の対面にある「天満宮」(左)に「源内の首塚」なるものがあるはずだが、ついに見つからず。  後日調べたところ、裏の薬師堂内にあるということであった

 天満宮のちょっと先左側の「中山道文化交流館」(右)が面白い。

 館内には「木曽海道六十九次」の版画が全て展示されている。また宇野宗佑著と記された本が何冊も展示されており、女性問題で評判を落とした宇野元首相の以外な一面を知ることができる。

 文化交流館先の三叉路に「道標」(左)が1本。刻まれている文字は「右中山道 并(ならびに) 美濃路」 「左 錦織寺・・・・」。 背面に延享元年(1744)霜月とある。

 三叉路のすぐ先が「守山」の地名を生み出した「東門院」(右)。

 延暦7年(788)、最澄が比叡山延暦寺を建立した際、四境に門を構えたが、その東門として設けられたのが始まり。後に桓武天皇が 「比叡山東門院守山寺」 と名号され、地名も守山とされたのだそうだ。

 東門院先に明治天皇聖跡碑が建てられているが、解説碑によると、明治11年10月12日と21日の2回、東門院境内の小学校で
御小休みしているのだとか。

 聖蹟碑の隣に建つ建物は「門前茶屋・かたたや」(左)。実はここは「かたたや」なる喫茶店なのだが、店が用意した説明書きによると、

 天保年間(1830〜1843)、ここに「堅田屋」という一軒の門前茶屋がありました。170年余り経た平成の時代に、堅田屋と同じ場所、同じ建物で再び「門前茶屋かたたや」が誕生。(要約してあります)

 次の交差点を渡って30mほど歩くと「どばし」(右)と表示された橋がある。ここには、かつて瀬田の唐橋の古材を使った公儀御普請橋が架けられていたそうだ。

 どばしの先は寂しい田舎道であったが、今は家が連なった住宅街。「格子戸の家」(左)も散見できる。


ほどなく街道際に大木が見えるが、ここは「今宿一里塚」(左)。

 なんと、滋賀県には中山道、東海道、北国街道、朝鮮人街道など多くの街道が通っており、それぞれに一里塚が築かれていたのだが、現存一里塚はここだけなのだそうだ。

 その先に「住蓮坊母公墓」(右)がある。武佐宿で住蓮坊を紹介したが、処刑される我が子に会うべく馬渕を目指した母公が、すでに処刑されたことを知り、池に身を投げ命を絶ったのがこの地であった。

 さらに数分、焔魔堂町交差点の先に五道山十王寺と刻まれた石柱が街道際に建てられている。脇の門を入ると目の前に「焔魔堂」(右)が。ここの閻魔大王は小野篁(おののたかむら)作なのだそうだ。

雑学:平安時代初期の人物である小野篁は、昼は宮廷に仕え、夜になると
    閻魔大王の元へ通い、閻魔の手伝いをしていたのだとか。

十王寺対面の諏訪神社境内(街道際)に「従是南淀領」と刻まれた領界石が一本。木が生い茂っていると、ちょっと見つけずらい。

 暫くは坦々とした旧中山道を歩き、栗東市に入ったら「大宝神社」(左)に寄り道を。

 大宝元年(701)、疫病流行のとき素盞鳴尊(スサノオノミコト)が当地に鎮座したことに由来すると云われる大宝神社は、近江守護職佐々木氏の庇護を受け隆盛を極めた神社である。

 鳥居をくぐって左に曲がり40mほど歩くと「芭蕉句碑」(右)がある。
  へそむらの まだ麦青し 春のくれ   はせを
 この辺りの地名は今でも栗東市綣(へそ)

中山道はこの先一時間弱歩くと草津追分で東海道と合流し京都へ。いよいよ中山道の旅も最終盤に入ってきた。




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