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第66宿武佐宿むさじゅく
 東西およそ八町余と細長い武佐宿は、伊勢へ通じる八風街道の追分で
あったことから、海産物、布、紙など物資の往来で賑わった宿場である。
 しかし、今は他の宿場と同様に、昔の賑わいを忘れてしまったかのような
静かな町並みとなってしまった。

平成22年6月10日  慶長年間から延々と400年も営業を続ける旅籠・中村屋。立派!

 愛知川宿を出て五個荘を通った旧中山道は「清水鼻の名水」横を通っていくが、その先は新幹線、国道8号などの工事によって消滅状態。
田んぼの中の道を歩いたあと国道に合流し、新幹線のガード下を通って5〜6分、「奥石神社」の標識が見えたら地下道を通って国道を横断
すると旧中山道に復帰できる。

 国道を横断して数分、「奥石(おいそ)神社」(左)は深い森に囲まれていた。天正9年(1581)に再建された本殿は織田信長の寄進と云われている。

 神社を取り囲む森は「老蘇森(おいそのもり)(右)と呼ばれているが、次のような伝説が。

 昔この地方は地裂け水湧いて人の住める場所ではなかったが、石辺大連という人物が松・杉・桧を植え、神に祈願したところ、たちまち大森林に生まれ変わったのだそうだ。石辺大連は百数十歳まで生きたことから「老蘇森」と称せられたという。

 神社を出て街道に戻り数分、陣屋小路と刻まれた道標に従って入った路地の先は「根来陣屋跡」(左)。鉄砲の根来集で有名な根来家が家康の家臣となり、この地に陣屋を設けたのだそうだ。

 街道に戻ってさらに数分、轟川に架かる轟橋の袂に「轟地蔵跡」(右)と刻まれた石碑が立っているが、かつてここに、五個荘に伝わる小幡人形の千体仏地蔵があったそうな。

 今は近くの福生寺に移されている。

 轟橋を渡った先からは変化の少ない住宅街の中の直線道路。僅かに変化を与えてくれるのは鎌若宮神社東光寺など。

 20分ほど歩いただろうか。小さな川のほとりに建てられた石碑に刻まれた文字は「泡子延命地蔵尊御遺跡」(左)。

 説明板によると、旅の僧に一目ぼれした茶屋の娘が、僧の飲み残した茶を飲むとたちまち懐妊し男児を出産。三年後、再び旅の僧が現れ、男児にフッと息をかけると泡となって消えてしまったのだとか。醒井宿の泡子塚と同じような伝説だ。

 10分ほど歩いて蛇砂川を渡ると大門跡と表示があり、その先は平安朝の時代から続くと言う「武佐神社」(右)。商売繁盛の市神様が祭られていることから市神神社とも。

 武佐神社から200mほど歩くと明治天皇御聖蹟と刻まれた石碑が建てられているが、この奥は推古天皇2年(594)、聖徳太子の命で建立したという「廣済寺」(左)(元々は東金堂)

 山門の回りは石垣が巡らせてあるが、この寺は時には本陣の役割も果たしており、明治天皇も北陸御巡幸の際ここで御昼食を。

 廣済寺入口の斜め対面は「奥村家脇本陣跡」(右)で、立派な冠木門が設置されている。しかし、今は武佐町会館が建てられており、往時の面影は全く見られない。

 その先左側の洋館は「旧八幡警察署武佐分署庁舎」(左)。明治19年(1886)の上棟で、設計者は滋賀県土木課の「木子監督員」。明治初期に日本人設計の洋館とは珍しい。

  
 すぐ先の国道421号交差点を渡ると左側に「大橋家住宅」(右)が見える。建物の歴史は分からないが、400年前から続く商家で、宿役人を務めた時期もあったそうだ。

 一軒先は、武佐宿設立当時から営業しているという「旧旅籠中村屋(左)。 今も料理旅館を営んでいるが、創業は慶長年間というからその歴史は400年以上。

 中村屋の斜め向かいの郵便局が「下川家本陣」があった場所だが、今は「本陣門」(右)だけが残されている。

 ところで、本陣と脇本陣がかなり離れている(150mほど)が、これだけ離れている宿場は珍しい。

 本陣跡の先にある十字路左側に「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれた「八風街道道標」(左)が建てられている。八風峠を越えて伊勢に至るこの街道は近江地方に海産物を運ぶ重要な街道であった。


 道標の先、一見民家風の建物は「松平周防守陣屋跡」(右)。武佐は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地であったことから、この地に陣屋を置き領土の管理を行っていたのだろう。

陣屋跡から4〜5分、「愛宕山常夜灯」(左)が街道際に立っているが、ここは高札場跡。旧中山道はこの先で近江鉄道の武佐駅に突き当たり、右に曲がってすぐに左に曲がる枡形道。


 枡形を抜け5〜6分、樟(クス)の大木が目立つ公園は「伊庭貞剛誕生地」(右)。 伊庭は住友財閥が所有する別子銅山の公害問題解決に尽力し、経営建て直しに活躍した人物である。

 旧中山道はこの先で国道8号に合流。この国道が怖いんだ。歩道が無いのに大型トラックがびゅんびゅん通り過ぎていく。
ほどなく6枚橋交差点に到着。ここで国道と別れて左に曲がり、次の丁字路で右に。ここからはのんびり歩ける。

 数分歩いた先の小公園奥に竹垣で囲まれた一角があるが、ここは「住蓮坊首洗い池」(左)。

 鎌倉時代、法然房源空の弟子であった住蓮坊が後鳥羽上皇の怒りに触れ承元元年(1207)に処刑されたのだが、そのとき首を洗った池が、この「首洗い池」と伝わっている。

 街道に戻り少し先を左に曲がると、田んぼの彼方に「住蓮坊古墳」(右)が見える。ここには住蓮坊と、京都で処刑さた安楽坊の墓があるが、元々は千僧供古墳群の一つ。墓は江戸時代に作られたもの。

旧中山道は再び国道8号に合流。この先は歩道があるので安心だ。

ここから平成22年11月8日

 千僧供橋を渡った数分先右側の八幡社は織田信長の兵火で焼失してしまったが、文禄5年(1598)に再建。総丹塗り・桧皮葺の「本殿」(左)は国指定重要文化財という貴重な建物。火気厳禁の表示が生々しい。

 神社入口に「高札所跡」(左)と刻まれた石碑がポツンと立っている。


 旧中山道はこの先で国道と別れ、今度は右側の旧道に入っていく。

 旧道は昔の面影が少しだけ残る住宅街の中を通っていくが、途中に茅葺屋根の民家が1軒。
「たわわに実った柿が茅葺屋根に良く似合う」(左)。

 旧道をかれこれ30分ほど歩くと横関川(現日野川)の土手上に出るが、ここはかつての「横関川渡し跡」(右)。

 安藤広重の中山道六十九次の内・武佐には舟橋が描かれている。通常は舟渡しであるが、水量が下がると川に杭を打って舟橋としていたのだそうだ。

明治8年、ここに橋が渡されたのだが現在は500mほど上流の国道8号に架かる横関橋を渡っていく。


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