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第65宿愛知川宿えちがわじゅく
 愛知川宿は東山道時代からの宿駅であったが、隣の高宮宿と同様に
近江上布を扱う近江商人によって栄えた宿場で、宿場先の五個荘は
近江商人発祥の地と言われている。
 五個荘あたりの街道沿いには茅葺の家が点在し往時を偲ばせてくれる。


平成22年6月9日   愛知川宿の先、五個荘は「近江商人発祥地」。天秤棒を肩にした近江商人がいました。

 高宮宿を出た後、無賃橋を渡り、中山道松並木を通り過ぎ、「葛籠町(つづらちょう)(左)、「出町(でまち)(左)と刻まれた道標を見ると「間の宿 石畑」が近い。

 四十九院交差点を通ってさらに7〜8分歩くと、町長リコール問題で有名になった「旧豊郷小学校」(右)が広い前庭の奥に見える。

 昭和12年(1937)、伊藤忠兵衛商店の専務・古川鉄次郎が寄贈した小学校校舎で、当時としては極めて珍しいコンクリート造り。解体の危機に見舞われたが、リニューアルされ図書館などに生まれ変わった。 

 小学校の先に 「一里塚の郷 石畑」(左) と刻まれた石柱が立てられているが、ここは江戸時代後期に 間の宿 として立場茶屋が設けられ、旅人で賑わった場所。

 石柱の後方に小さな一里塚が復元されているが、解説板によると、この先数分の豊郷町役場前交差点の南側に一里塚が設けられていたそうだ。しかし、今はその痕跡は全く無い。

 写真のバス停後ろに「間の宿碑」(右)も設置されている。

 豊郷町役場前交差点の先に「くれない園」(左)と呼ぶ公園があるが、ここは伊藤忠商店の創業者伊藤忠兵衛の功績を偲んで昭和10年(1935)に造園したもの。


 そのすぐ先には「伊藤長兵衛屋敷跡碑」(右)が据えられている。伊藤長兵衛は伊藤長兵衛商店の七代目であったが、伊藤忠商店と合併し株式会社丸紅商店を設立し初代社長となった人物である。

 数分歩くと「伊藤忠兵衛記念館」(左)があるが、ここは初代伊藤忠兵衛の旧邸であり、2代目忠兵衛の生家でもある。無料公開されているので時間が許せば見学するとよい。

 その先数分の街道際に「金田池」(右)と表示された井戸がある。

 説明板によると、「かつて、この地より北50mの所に金田池と称する湧水があり、中山道を旅する人達の喉をうるおしてきたが、近年、埋め立てられてしまったので、それを模して再現した」のだとか。

 さらに数分、「又十屋敷」(左)と記された大きな看板が。どういうわけか看板の下に一里塚址碑がひっそりと立っている。

 ここは、江戸時代末期、「又十」という屋号で呉服商を営んでいた藤野喜兵衛喜昌の旧宅で、彼は後に北海道に渡って多くの漁場を開き、廻船業も営んでいた。

 又十屋敷の数分先、千樹寺門前の石碑は「江州音頭発祥地碑」(右)。天正14年(1586)から続くという江州音頭のスタートは観音堂竣工式の余興であったそうな。

 さらに4〜5分歩くと宇曽川に架かる「歌詰橋」(左)を渡るが、この橋には平将門伝説が。

 平将門を討った藤原秀郷が京に上るためこの橋まで来たとき、カッと目を見開いた将門の首が追いかけてきたそうだ。秀郷、あわてずその首に「歌を一首」と言うと将門の首は歌に詰まり土橋にパタリと落ちたのだとか。以来「歌詰橋」。

 その将門の首が埋められているというのが橋の先にある普門寺裏の「将門首塚」(右)。地元の人は「首塚」と呼んでいるが、山塚古墳と呼ぶ円墳である。

ここから平成22年6月10日    

 歌詰橋から15分ほど歩くと「沓掛の三叉路」(左)に到着するが、ここは真っ直ぐ行く道が旧中山道。ちなみに左は地元の人が「旗神さん」と呼んでいる「豊満(とよみつ)神社」への道である。


 三叉路を真っ直ぐ進み愛知川小学校の前を通って4〜5分、十字路向こうの「現代的?な冠木門」(右)に「中山道 愛知川宿」と記されている。ついに65番目の宿場に到着。

 冠木門をくぐったすぐ先の板塀に囲まれた屋敷は「旧田中家住宅」(左)。今は「近江商人亭」という料亭となっている。

 近江商人といえば江戸時代後半に数多くの豪商を産出したことで知られているが、愛知川の豪商・田中家は明治に入ってから大きく飛躍した近江商人。ここはその田中家の別邸であった。

 数分先に「愛知川宿北入口碑」(右)が建てられているので、ここから宿場内ということになるのだろうか。傍らに多数の地蔵様が。なんとなんと30体以上も。

さらに数分、交差点向こうのポケットパーク木曽街道六十九次 愛知川(広重絵)パネルが展示されている。

 交差点を渡ったすぐ先に日本生命の営業所があるが、ここは「本陣跡」(左)。この建物から裏の空き地一帯が本陣跡なのだそうだが、今は往時の面影は全く感じられない。


 本陣跡の2軒ほど先に常夜灯と鳥居があるが、その奥にある桧皮葺の「八幡神社本殿」(右)が素晴らしい。解説文によると、寛文11年(1671)に大阪の大工によって建立されたのだとか。

 八幡神社入口に「高札場跡碑」(左)が建てられており、その先左側には「問屋跡碑」(左)が建てられているのだが、肝心の脇本陣跡の石碑が見つからない。

 はてさて困った。居合わせた洋品店のご主人に尋ねると、「そこだよ」と教えてくれたのが高札場跡碑の1軒となり。今は空き地となっている。家を解体したとき石碑も撤去してしまったのだとか。困ったものだ。

 愛知川宿には江戸時代から続く老舗が何軒かあるが、「マルマタ商店」(右)は文政11年(1828)創業。おいしい漬物のお店です。

 数分先に門構えの立派な家があるが、ここは「旧旅籠竹平楼」(左)。宝暦8年(1758)創業の旅籠は「竹の子屋」の屋号であったが、四代目が竹平楼と改め、現在は七代目が日本料理店を営んでいる。


 すぐ隣に「明治天皇御聖蹟碑」(右)が建てられている。明治11年(1878)、北陸・東山道御巡幸の折に竹平楼で小休みしたのだが、その時の御座所が今も保存されているそうだ。

 竹平楼の先の小さな川を「不飲川(のまずがわ)(左)という。この川にも平将門伝説が。

 水源である野間津池で平将門の首を洗ったため水が赤く濁ってしまった。以来、地元の人はこの川の水を飲まなくなってしまったのだとか。だから不飲川。

 旧中山道は不飲川のすぐ先で国道8号に合流。合流点向こう側の広場奥に「一里塚跡碑」(右)がポツンと立っているが、ここは「愛知川一里塚」があった場所。

この先は国道8号をてくてくと。10分ほど歩き愛知川に架かる御幸橋を渡っていくのだが、その手前に「むちん橋説明板」(左下)がある。

 高宮宿に「無賃橋」があったが、その説明板が何故ここに?  説明を読むと、実はここにも「無賃橋」があったのです。

 出水のたびに旅人どころか村人をも困らせた愛知川に、商人の寄付で完成した橋は無賃で渡れたのだとか。だからここも「無賃橋」。天皇御巡幸の折に橋を新設、その時に「御幸橋」と名前を変えてしまった。

 すぐ傍の祇園神社に、無賃橋以前から夜間の愛知川を照らしていたという「常夜灯」(右)が1基。今でも夜になると明かりが灯る。

国道8号が出来たことで旧中山道のコースがちょっとはっきりしなくなってしまったが、とにかく御幸橋を渡って対岸へ。

 橋を渡ったら最初の交差点を左に曲がり、近江鉄道の踏切を越えて「常夜灯」(左)が見えたら右に曲がると旧中山道に復帰できる。

 10分ほど歩くと左に分かれる道の向こう側に彫りの深い道標が1本。
代参街道道標」(右)で刻まれている文字は「左いせ ひの 八日市みち」「右 京みち」。

 この街道は東海道の土山宿まで続いており、京の公卿達の代参の者が伊勢神宮と多賀大社へ参詣するために通った街道であったことから「御代参街道」と言われるようになったのだとか。

 道標の数分先にポケットパーク」(左)があるが、旧中山道はここを右へ。

 右へ曲がった街道は数分で川を渡り左へ曲がって五個荘支所前。街道はその先のポケットパーク旧五個荘郵便局前を通って北町屋へと入っていく。

 交差点先に「明治天皇北町屋御小休所碑」(右)が建てられているが、小休みしたのは斜め対面奥の「旧市田邸」(右)である。

 旧市田邸から5〜6分、県道を越えた先に金毘羅大権現の常夜灯と手入れの行き届いた藁葺屋根の古民家が見える。ここは「旧片山家住宅」(左)で大名も休憩した立場本陣であった。

 その先に真っ直ぐな道が続いているが、10分弱歩くと国道8号に合流。その合流点に建てられているのは「てんびんの里碑」(右)。

 上に乗っているのは天秤棒を担いだ「近江商人」。天秤棒一本で全国を行商し財をなした近江商人は、ここ五個荘(ごかしょう)が発祥地。

 国道8号に合流した旧中山道は100mほど先の交差点で右に曲がり、30mほど歩いたら左に曲がって山裾を進んでいく。

 数分歩くと東屋の中に清水の湧き出す井戸があるが、ここは「清水鼻の名水」(左)と呼ばれた立場があった場所。今も滾々と名水が湧き出ている。

 この先7〜8分歩くと国道に合流するが、その先は新幹線と国道8号の工事で旧中山道は消滅状態。こんな時は「田んぼの中の道」(右)をのんびりと歩くのも悪くない。



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