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第63宿鳥居本宿とりいもとじゅく
 東山道の頃は西隣りの小野集落が宿場であったが、彦根城が完成し、
城下へ通じる街道が整備されると、宿場の機能も現在地に移ってきた。
雨合羽
(道中合羽)が名産品で、最盛期には18軒もの店があったという。

平成22年5月7日   木枯し門次郎愛用の道中合羽、ひょっとしたら鳥居本宿産かも、なんていうことは無いな。

 番場宿を出てかれこれ1時間、磨針峠を下った旧中山道は国道8号に合流。左へ曲がって橋を渡ったら再び左の旧道へと入っていく。

 その入り口にある大きなモニュメントは「おいでやす彦根」(左)。上の3人、いや3体は当時の旅人ですかな。

 モニュメントの辺りから「中山道松並木」(右)となるのだが、本数も少なく木も若い。今は松並木の風情があまり感じられないが、あと20〜30年もすれば立派な松並木になるだろう。

5〜6分歩くと道が左に曲がっていくが、ここは江戸側枡形。
 枡形道向こうの古民家は350年以上の歴史を持つという「赤玉神教丸本舗」(左)の有川家。建物は宝暦3年(1753)以来というから250年以上前のもの。明治天皇も東海北陸御巡幸の折に小休みしている。

 赤玉神教丸は9種類の生薬を配合した和漢健胃薬。飲みすぎ(二日酔い)にも効果があるんだって。これはいいや。

 有川家横の路地を入ると国道8号の向こう側に「上品寺梵鐘」(右)が見える。この梵鐘は法海坊が江戸市中を托鉢して作ったもので、寄進者に新吉原の遊女らの名前も。

 街道に戻って数分、鳥居本宿の名産であった「道中合羽の看板」(左)が今も残されている。 看板のお店「木綿屋」は天保3(1832)の創業で、戦前まで合羽を製造していたそうだ。

 ページトップの旅人が道中合羽だが、正面の姿が左である。


 合羽看板の先、さらに数分歩いて右に曲がると国道の向こう側に近江鉄道「鳥居本駅舎」が見える。昭和6年(1931)に建てられた駅舎は建て替えられているが、当時の様式をそのまま継承した建物なのだとか。

ここから平成22年6月9日   ちょっと足を伸ばして「彦根城」を見学してきました。

 街道に戻ると目の前が「本陣跡」(左)。寺村家が代々務めてきたが今は草地となっており、往時を知る手がかりは道路際に立てられた説明板のみである。


 本陣跡の隣が「脇本陣跡」(右)であるが、ここも往時の面影は無い。高橋家が務めていた脇本陣は問屋も兼務していたそうだ。

 またまた合羽の看板が。こちらは「合羽所 松屋」(左)。
和紙に、紅殻を混ぜた柿渋を塗ることで防水性と保温性を高めた鳥居本の合羽は、木曽に向う旅人に大変人気があったとか。


 このあたりは「虫籠窓の家」(右)や卯建のある家、はたまたベンガラの塗られた格子戸の家が軒を並べるなど、宿場時代を彷彿とさせてくれる街道で、実に楽しく歩ける。

 宿場の終わり近く、十字路の向こう右側に「常夜灯」(左)が見えるが、これが実に豪華。格子の扉が嵌められ、屋根は桧皮葺、擬宝珠まで乗っている。

 その数分先にある寺院は聖徳太子開祖と伝わる「専宗寺」(右)。もともとは佐和山城下にあった寺院であるが寛永17年(1640)に現在地に移ってきたもので、本堂は18世紀後半の建立だそうだ。

 佐和山城:現彦根駅近くの山上にあった城で石田三成の居城であった。関ヶ原の合戦で石田三成が敗れた後、徳川方によって徹底的に破壊されてしまった。

 専宗寺から数分のT字路に建てられた「彦根道道標」左)に刻まれた文字は「右彦根道 左中山道 京いせ」。

 文政10年(1827)に建立されたもので、中山道と彦根城を結ぶ脇街道として整備されたが、朝鮮通信使が通ったことから朝鮮人街道とも呼ばれている。

 彦根城までの道があるならせっかくだから城まで歩こう。
と思ったが城まで約1里、ちょっと遠い。今朝、彦根駅で下車し彦根城の見学をしてきたので軽くご案内を。

彦根駅の西口前から彦根城に向って真っ直ぐな道を約15分。突き当たりを左に曲がり、すぐに右へ曲がると中堀の前に出る。

 堀際の松並木を「いろは松」と呼んでいる。2代藩主井伊直孝のころに植えられた松は土佐から取り寄せたもので、いろは47本あったので、いつしかこう呼ばれるようなったのだとか。

 松並木の先の佐和口多門櫓を通り、馬屋前を通って堀を渡ると城内への上り口。

 坂道を上っていくと、樹間に「天秤櫓」(右)が見える。さらに坂を上って左へぐるっと一周すると天秤櫓に繋がる廊下橋にたどりつき、いよいよ城内へ。

 天秤櫓を抜け、さらに坂を上って太鼓門櫓を入ると広場の向こうに国宝の「彦根城天守」(左)が威容を誇っている。

 慶長9年(1604)に着工され、天守は2年で完成。その後20年かけて城下町などの整備を行っている。 明治に入って解体の危機に見舞われたが、明治天皇から保存するよう大命が下り難を免れた城である。

 天守最上階からの眺めが素晴らしい。西側の窓を覗くと、すぐそばに「琵琶湖」(右)が見えるではないか。霞が出てちょっとボンヤリしているのが残念。江戸時代には、すぐ下まで湖面であったそうだ。

北側の窓からは四代藩主、井伊直興によって造られた大名庭園玄宮園が望める。

 天守裏の九十九折りの坂を下ると「玄宮園」(左)に入れる。池水を中心にした回遊式庭園を散策していると、中山道をてくてくと歩いてきたことをふっと忘れてしまいそうな。

 佐和口多門櫓を出て左へ曲がった所の白壁の屋敷は 「埋木舎(うもれぎのや)(右)。 15代藩主で江戸幕府大老の井伊直弼が、青年時代に300俵の捨扶持で過ごした所。

 直弼は、「生涯花咲くことはあるまい」と埋もれた木にたとえて「埋木舎」と呼び、ここで茶道・華道・禅・武術などを学んだのである。
彦根城の詳細はこちらのホームページをご覧下さい。

彦根城見学は約1時間。急いで中山道に戻りたいのだが歩くにはちょっと遠すぎる。彦根駅から電車に乗り、鳥居本駅で下車。再び街道の旅へ。

 虫籠窓の家を眺めたりしながら彦根道道標まで戻ると、その先は田園風景広がる田んぼの中の道。「古宿」(左)という看板があるが、この先の集落は東山道時代の小野宿。

 小野宿はかの有名な小野小町の誕生地と云われており、小野集落の先にあったのは「小野小町塚」(右)。

 小野町の郷土芸能「小野町太鼓踊り」に次のような一節が。
 「小野美実が奥州に下る途中、小野に一夜を求め生後間もない女児に出会った。美実はこの女児を養子にもらい受け出羽国へ連れて行ったが、この女児が小町という」

 新幹線のガード下を通り、左に曲がった突き当たりに彦根藩士であり芭蕉の弟子でもあった「森川許六の句碑」(左)が。
 水すじを 尋ねてみれば 柳かな   許六

 街道に戻ったらすぐ先の「原八幡神社」の参道を入ると見られるのは「ひるね塚と白髪塚」(右)。
   ひるね塚(芭蕉の句碑) ひるかおに ひるねせうもの とこのやま

   白髪塚  恥ながら 残す白髪や 秋の風
白髪塚の句は蕉門四世・祇川居士の句だとか。

原八幡神社を出て街道に戻ると、その先は住宅街の中の坦々とした道。

 30分ほど歩いた芹川の手前左側に見える山は万葉集に歌がある「鳥籠山(とこのやま)ではないかと言われている「大堀山」(左)。

 また芹川はかつては「不知哉川(いさやかわ)」と呼ばれ、ここも万葉集に歌われており、橋の手前を左に下った先の「万葉歌碑」(右)に2首 刻まれている。
 歌碑の拡大写真はこちら
 淡海路の鳥籠の山なる不知哉川 日のころころは 恋つつもあらむ 巻4−487
 犬上の鳥籠の山なる不知也川 不知とを聞こせわか名告らすな 巻11−2710

 芹川に架かる大堀橋を渡ると公園の前に「床の山碑」(左)が建てられているが、側面は芭蕉句碑。
 ひるがおに 昼寝せうもの 床の山   芭蕉

 その先、石清水神社参道階段横の石碑は享和元年(1801)建立の「扇塚」(右)である。

 井伊藩の手厚い保護を受けた能楽喜多流の9代目家元・健志斎古能がこの地を去る時、「面と扇」を残したのだが、門人達がその面影を伝えるため塚を建立したのだとか。



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