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第60宿 柏原宿かしわばらじゅく
 近江路へ入って最初の宿場である柏原宿は東山道時代からの宿駅で
あったが、 江戸時代に入ると艾
(もぐさ) の産地として有名になり、 さらに
賑わいを見せた宿場である。
 奈良井宿や妻籠宿ほどではないが、古民家が点在する町並みには
宿場時代の面影がよく残っている。

平成22年5月6日  徳源院の京極家墓所には歴代34基の宝筺印塔(ほうきょういんとう)が整然と並んでいます。

 国境を越えた旧中山道は、 旧東山道を右に見て坂道を下っていき、踏切を渡って右に曲がるとまもなく柏原宿。踏切の先を数分歩くと「柏原宿碑」(左)が出迎えてくれる。

 そのすぐ先にある御堂は「照手姫笠掛地蔵堂」(右)。2体ある地蔵のうち右側の小さい地蔵が笠掛地蔵。傍らの説明板にによると。

 長い文章なので詳細は省くが、毒を盛られ死の瀬戸際にある小栗判官助重を救うため照手姫が地蔵に笠を掛けて祈ったのだとか。

 地蔵堂の先あたりから「ベンガラ塗りの民家」(左)が目立つようになる。写真を撮らせていただいたお宅のご主人によると、「木肌が黒く変色するのを防ぐ」ために塗るのだそうだ。
コメント:史蹟などの建物ではないので、家主様の了解を得て撮影しています。

 ほどなく八幡神社の前に出るが、境内に「芭蕉句碑」(右)が1基。

  其のまゝよ 月もたのまし 伊吹の山    桃青
 元禄2年(1689)、松尾芭蕉は伊吹山を左に見ながら北国脇往還を大垣(奥の細道むすびの地)へ向って歩いている。

 八幡神社の先から旧宿場街に入るのだが、人影の見えない「柏原宿の町並み」(左)がずっと先まで続いている。冬季は雪が多いのだろう。道路中央の線はに融雪装置。

 5〜6分歩くと「問屋場跡」(右)の表示が。説明板によると、柏原宿には東西3軒ずつ、都合6軒の問屋があり、東西2軒づつが10日交代で務めていたのだそうだ。

 すぐ隣が当日処理できなかった荷を保管する荷蔵跡

 問屋場跡の斜め前が「脇本陣跡」(左)。説明板によると、二百二十八坪の屋敷に建坪七十三坪の建屋があったそうだ。

 脇本陣対面の古民家に「旅籠屋 京丸五兵衛」(右)の看板が下がっている。

 傍らの説明板によると、柏原宿には 『 旅籠22軒/造り酒屋3軒/請負酒屋10軒/炭売り茶屋12軒/豆腐屋9軒/・・・・・・/他商人28軒』 とある。 賑やかな商店街だったようですね。

 旅籠跡のすぐ先右側に「柏原宿説明板」(左)が建てられているが、脇に「映画監督 吉村公三郎実家」と記されている。祖父が柏原宿最後の庄屋であったそうな。


 そのすぐ先が「本陣跡」(右)で江戸時代を通じて南部家が務めている。建物は和宮宿泊の時、新築されたのだが明治に入って垂井宿の南宮神社に移設されてしまった。

 その先の橋際に秋葉常夜灯が建てられているが、ここは「高札場跡」(左)。

 常夜灯の脇を流れる市場川に架かる市場橋を「初恋橋」(右)とも呼んでいる。 吉村公三郎の若き日の「思い出の橋」なのだとか。

 ちなみに吉村監督の映画「地上」には、監督の初恋の思い出が織り込まれているそうだ。 出演者には川口浩、野添ひとみ、田中絹代、香川京子、佐分利信など懐かしい俳優がずらり。

 橋を渡ると、左手に大きな古民家が見えるが、ここは寛文元年(1661)創業の艾(もぐさ)製造・販売店、「伊吹艾本舗 亀屋左京商店」(左)。かつては九軒の艾店があったそうだが、今はここだけになってしまった。

 亀屋左京商店対面の「やいと熟」と看板が下がった古民家は「造り酒屋・巌佐九兵衛跡」(右)。造り酒屋はこの先にも「山根庄太郎家」、「松浦作左衛家」などの看板が見られる。

コメント:「やいと」はお灸のこと。「やいと塾」とは「お灸塾」ということか。

 ちょっと先の重厚な建物は「柏原宿歴史館」(左)。 大正6年建築の母屋は国登録有形文化財に指定されている。喫茶室も併設されているので休憩がてらの入館がお勧め。


 柏原宿にはベンガラ塗りの民家が多く見られるが、「虫籠窓の家」(右)もよく見かける。大湫宿を歩いているとき初めて目にしたが近畿地方に多い形式なのだそうだ。

歴史館の隣に日枝神社があり、その先左側には西の荷蔵跡がある。

 荷蔵跡の先にある道標は「薬師道道標」(左)。最澄が創立したという明星輪寺泉明院への道しるべで、享保2年(1717)に建立されたもの。正面が漢文、左右は平仮名・変体仮名で刻まれている。


 道標先の交差点向こう側の公園は「御茶屋御殿跡」(右)である。江戸時代初期、将軍上洛下向の際、休憩や宿泊した館で、天正16年(1588)には徳川家康も休息しているそうだ。

旧中山道は交差点を真っ直ぐ進んでいくのだが、どうしても寄り道したい場所があるので右に曲がることに。

 交差点から5〜6分歩いた十字路の向こう側、ガードレールの外に設置されているのは「芭蕉句碑」(左)。

 折々に 伊吹を見てハ 冬籠もり   はせを

 元禄4年(1691)の初冬、大垣の門人岡田千川亭の句会で詠んだもの。

 その「伊吹山」(右)が田植えの終わった田んぼの向こうに見えるが、頂上付近が雲に隠れ、ちょっと霞んでいるのが残念。

 中山道から分かれ、芭蕉句碑を見たりしながら約20分、到着した所は「清竜寺徳源院」(左)。


 徳源院は近江源氏とも称された佐々木氏の4男 氏信を祖とする京極家の菩提寺。 本堂裏手の「京極家墓所」(右)には初代 氏信公を筆頭に歴代の当主や分家の墓碑宝篋印塔が整然と並んでいる。

境内左手に見える「三重塔」(左)は寛文12年(1672)、讃岐丸亀藩主であった京極高豊が清滝寺に寄進したもの。このとき、付近に散在していた墓碑を一箇所に集め、院号を「徳源院」と改めたのだそうだ。

 拝観させていただいた「本堂裏の庭園」(右)は、背後の自然林を取り入れ、池を中心にした素晴らしい庭である。

 かつては清滝から水が落ち、池に満々と水が湛えられていたそうだが、伊勢湾台風のとき水源が崩れてしまったため、今は枯山水状態。
ちょっと残念。

 街道に戻る前にもう一箇所寄り道を。

 先ほどの芭蕉句碑の近くから山道に入り、池の脇を通って10分ほど上ると国指定史蹟の「北畠具行の墓」(左)がある。

 鎌倉幕府倒幕に加わったが失敗に終わり、捉えられて鎌倉に護送される途中、この地で斬首。元弘2年(1332)のことであった。宝篋印塔は死後16年経て建立されたもの。

 街道に戻ると、交差点のすぐ先に古民家が見えるが、これは「郷宿(ごうやど)跡」(右)。脇本陣と旅籠の中間的存在で、武士や公用の庄屋などの休泊に使われた宿である。

 数分歩くと「柏原一里塚」(左)を見ることができる。江戸時代に造られたにしては整いすぎていると思ったら復元であった。元々の一里塚はこの先の西見付近くにあったそうだ。

 その「西見付跡」(右)がすぐ先にある。今はわずかに土塁が残るのみで、説明板が無ければ通り過ぎてしまうだろう。

 この先は楓や松の並木が続く山裾の静かな街道で、木漏れ日の中を気持ちよく歩くことができる。

 ほどなく道が二つに分かれるが、「旧中山道は右側の土道」(左)へ入っていく。この道はかつての東山道でもあった。

 また、壬申の乱後に不破関が設けられているが、ここはそれ以前から関屋があったという「小川(こかわ)の関跡」(右)である。

 旧中山道である右の土道に入ると鬱蒼とした杉林の中に薄暗い道が続き、7〜8分歩くと先ほどの道に合流し、かつて横川駅があったという梓集落へと入っていく。



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