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第58宿関ヶ原宿 せきがはらじゅく
 中山道と交わる北国脇往還と伊勢街道の分岐点にあたる関ヶ原宿は、
美濃十六宿の中で最も賑わった宿場であった。 しかし、現在は宿の
中心に国道が通ってしまったため、往時の面影はあまり感じられない。

 徳川家康と石田光成が天下の覇を争って戦った「関ヶ原の合戦」が
行われた地であることから、周辺各所に陣跡が点在しており、陣跡巡り
だけでも一日を過ごすことができる。

平成22年3月12日   「関ヶ原の戦い」がすぐに思い浮かぶ「関ヶ原宿」。しかし戦場は広すぎて回りきれない。

 垂井一里塚を通り過ぎ、国道21号を横断すると、街道際に建てられた「中山道道標」(左)に関ヶ原の文字が見える。

 いよいよ天下分け目の「関ヶ原の合戦」が行われた地に足を踏み入れたのだが、「合戦地」はもう少し先。

 道標から20分ほど歩いただろうか。間の宿であった野上集落に、「野上の七つ井戸」(右)と呼ばれて旅人に親しまれてきた井戸が復元されている。この井戸はつるべ式で、実際に水を汲むことができる。

 野上の井戸横を右に曲がり、その先の東海道線手前を右に曲がった先に見えるのは「しゃもじ塚」(左)。

 平安の中頃、朝廷に反抗した平忠常が捕らえられ都へ護送途中、病となってしまった忠常に村人が食物を「しゃもじ」にのせて差し出したところ、しゃもじごと口に入れそのまま亡くなったのだとか。村人が塚を築いて弔ったそうだ。

 しゃもじ塚方向と反対側の道を上っていくと「大海人皇子(おおあまのおうじ)行宮跡」(右)に行かれる。壬申の乱で、大海人皇子が本営を置いた場所と云われている。

 街道に戻り先へ行くと「旧中山道松並木」(左)が出現。
 芦田宿先の笠取峠松並木以来の松並木である。 日本の街道はやはり松並木が似合う。


 松並木の途中に「六部地蔵」(右)が祀られていた。

 六十六部と呼ばれた行脚中の行者が宝暦11年頃(1761)、この地で亡くなられたので村人が祠を建てお祀りしたのだそうだ。

 旧中山道はほどなく国道21号に合流。合流地の左手向こう側に「桃配(ももくばり)山」(左)が見える。

 天下を分ける「壬申の乱」のとき、大海人皇子(後の天武天皇)がこの山に出陣し、兵士に桃を配って激励。数万の兵士は意気に燃えて連戦連勝したことから「桃配山」と呼ばれるようになったのだとか。

 時代は下って慶長5年(1600)、再び天下分け目の「関ヶ原の合戦」。徳川家康は桃配山に「最初の陣」(右)を敷き、一日で天下を自分のものに。そのときの腰掛とテーブルが右写真のの石だという。

旧中山道は、すぐ先の国道21号一ツ軒交差点から右に入り旧道を通って再び国道に合流。この先は国道をてくてくと。

 十数分歩いて東公門交差点まで来ると、黒色の古民家風建物が。左に回り込むと壁に「宮内庁御用(達)」と記されているが、ここは味噌・醤油の「関ヶ原醸造」(左)。写真に撮りたくなるような建物です。

 さらに数分歩くと「枡屋」(右)という旅館があるが、軒行灯に「創業永長元年」と記されている。調べたところ、永長元年は西暦1096年。
えっ、平安時代! 気が遠くなるほど昔ですねー。

 枡屋前の交差点から南へ向う道が伊勢街道。関ヶ原の戦いで敗れた島津軍が、敵中を突破して背進したのがこの伊勢街道だとか。

関ヶ原宿は、旧街道が国道21号となってしまったため宿場時代の面影がほとんど残っていない。

 当時の面影がわずかに残っているのは相川家の「脇本陣門」(左)だけになってしまった。 脇本陣の隣に本陣があったのだが、今は面影は全く無く、表示も無い。

 その先(銀行手前)から右に曲がると突き当たりが「八幡神社」(右)。鳥居脇にスダジイの巨木があるが、ここは本陣の庭の一角であった。

 八幡神社の脇を通る道は北国脇往還で、東海道線に分断されているが、北国街道の木の本まで通じている。

 八幡神社の脇を通って東海道線の跨線橋を渡ると、「東首塚」(左)があるが、ここには家康によって実検された将士の首が眠っている。

 首塚脇の北国脇往還をもう少し先まで歩くと大きな石碑が建てられているが、ここは「徳川家康最後の陣跡」(右)。

 戦がたけなわになると、家康は本営を桃配山からここへ移し陣頭指揮。戦が終わるとこの地で部下が取ってきた首の実検を行っている。
 

ここまで来る間に、松平忠吉・井伊直正陣跡や田中吉政陣跡があったが、多くの陣跡が散在しているので、一日かけて巡るのもよさそうだ。

 「最後の陣跡」の近くに「歴史民族資料館」(左)があるので、休憩がてら覗いてみることをお勧めする。規模は大きくないが、関ヶ原ならではの展示が見られる。

 国道21号に戻って西に進み、国道365号との交差点を過ぎると歩道が無い。大型トラックがうなりを上げて通り過ぎるのだ。怖わー。

 交差点を渡って数分歩くと胴塚とも呼ばれている「西首塚」(右)があるが、ここも家康の実検が終わった将士の首が眠っている場所。

旧中山道は西首塚から4〜5分歩くと左の静かな旧道に入っていく。ほどなく月見の宮 福島陣跡と刻まれた石標があるので左の路地奥へ。

 春日神社は別名を月見の宮と呼ばれ、月見の名所だったとか。今は「大杉」(左)が目を引く。なんと樹齢800年、高さは25mもあるそうだ。

 また、ここは福島正則が宇喜多隊と対陣し、激しい戦が行われた場所でもある。

 街道に戻り数分歩くと「不破関の庁舎跡」(右)がある。この辺りに関の庁舎、官舎などが並んでいたそうだ。後方の祠の中に、壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けたという石が祀られている。

 さらに数分歩いた先の建物の辺りは壬申の乱(672)後に設けられた三関(不破・鈴鹿・愛初)の一つ 「不破関(ふわのせき)跡」(左)。 ちなみに、不破関を境にして関東、関西と呼ぶようになったのである。

 関は延暦8年(789/平安初期)に廃止となり、以降は関守が置かれ、代々三輪家が守ってきたそうだ。その三輪家の庭(建物の裏側)に据えられているのは「芭蕉句碑」(右)。

 秋風や 藪も畠も 不破の関  はせを

関跡の先で道は2方向に別れるが、中山道は真っ直ぐの坂道を下っていく。右の坂道を上った先は不破関資料館である。

 坂を下った先の「藤古川」(左)は、古くは「関の藤川」と称し、壬申の乱では大海人皇子と大友皇子(後の弘文天皇)がこの川を挟んで開戦。関ヶ原合戦では大谷吉継が布陣するなど軍事上要害の地であった。


 川を渡った先の坂道を上ると「矢尻の池」(右)と称する小さな池がある。この池も壬申の乱に関係するのだが、大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘った池と伝えられている。

 数分歩いて国道21号を横断。さらに先へ行くと街道の下をよこぎっているのは「黒血川」(左)。

 壬申の乱では、この地で両軍初の衝突が起き、激しい戦闘が行われたのであった。そのとき両軍兵士の流血がこの川に流れ、川底の岩石を黒く染めてしまったのだとか。以来 黒血川。

 黒血川のちょっと先に「鶯の滝」(右)と呼ばれる名所(だった場所)がある。水量豊かで、年中鶯が鳴くこの辺りは、旅人の疲れを癒してくれる恰好の場所。立場としても賑っていた。

 すぐ先の二股道を右に入って数分。ちょっと奥まったところに「常盤御前の墓」(左)がある。

 都一の美女と言われた常盤御前は今若、乙若、牛若の3児を産み幸せな生活を送っていたが、源氏が戦に破れると一転。牛若丸を追ってこの山中まで来たが土賊に襲われ息を引取ったのであった。

 墓の後ろに2基の句碑があるが、その一つは「芭蕉句碑」(右)。
  義ともの心耳 似多里秋乃 可世  者世越翁
  義朝の 心に似たり 秋の風 はせを翁

 暫く歩くと街道際に小さな祠があり、達筆な白文字「蔵地盤常」(左)と記されている。どなたかが「常盤地蔵」と表示板を掲げてくれているので助かったが、???となるところであった。


 旧中山道はこの先の東海道線踏切を渡り、ちょっときつい坂を「今須峠」(右)へと上っていく。峠を越えるとその先は59番目の宿場、「今須宿」である。

 

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