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第57宿垂井宿 たるいじゅく
 美濃一宮(南宮大社)の門前町として賑わった垂井宿は、中山道と東海道を
結ぶ美濃路との追分宿としても賑わっていた。宿場名にもなった垂井の泉は
古代から和歌にも詠まれた名泉で、今も滾々と清水が湧き出している。
 宿場時代の雰囲気残る町並みは、りんご畑こそ無いが石坂洋次郎の
「青い山脈」の町並みを連想させてくれる。

平成22年3月12日   江戸時代の旅籠が江戸時代の建物で、今も頑張っています。

 赤坂宿を出てかれこれ1時間半、左からの道と合流して「相川」を渡ると垂井宿に入っていく。 この合流点は美濃路を通って東海道へ通じる「垂井の追分」(左)。


 追分標柱の後ろに、宝永6年(1709)に建てられたという「追分道標」(右)がある。刻まれている文字は「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」。

 相川を渡ると「垂井宿の入り口」(左)。 ここには相川の人足渡跡説明板東の見付説明板、さらには垂井宿碑垂井宿案内マップも設置されており、至れり尽くせりである。

 宿場に入って数分、案内に従って左に入り「紙屋塚」(右)を探したのだが、ここが分かりずらい。左に入ってすぐに左へ曲がり、さらに左の路地を入った奥でやっと見つけました。

 国府に近い垂井には、豊富な清水を使った官設の抄紙場が設けられており、美濃一帯から集められた紙の検査場もあったそうだ。

 街道に戻るとその先が「東の枡形」(左)。見事に枡形となっている。

 枡形の右側に見える建物は「旅籠 亀丸屋」(右)。

 垂井宿の旅籠屋として200年以上続き、今も旅館を営んでいる。建物は安永6年(1777)に建てられたもので、内部はなるべく手を加えず、当時のままにしてあるのだそうだ。

 細久手宿に江戸時代から続く「大黒屋」があったが、こちらも江戸時代から続く旅籠。頑張っていますねー。

 亀丸屋のちょっと先、格子戸の民家は「問屋場跡」(左)。金岩家が務め、問屋以外にも相川の人足渡しの手配もしていた。代々彌一右衛門を名乗っていたそうだが、「彌」なんとも難しい字だ。


 その先、和菓子店の横に「本陣跡碑と説明板」(右)が建てられている。本陣を務めたのは栗田家であったが、178坪の本陣建物は安永9年(1780)に焼失。再建された建物は残念ながら明治期に解体。

 本陣跡から数分歩くと「南宮大社大鳥居」(左)が道路を跨いでいる。寛永19年(1642)、徳川家光の寄進で南宮大社が再建されたのだが、その時に400両で建てられたのだとか。

 ちなみに400両というと、今の2千万円〜3千万円だそうだ。

 大鳥居を入ったすぐ先は「垂井の泉」(右)である。
「東路に名たかき泉三あり 其三つといふは近江国坂田郡醒井泉 美濃国多芸郡養老泉 同国不破郡垂井泉 是なり 其水を試し人のいひけるは 養老は醒井にまさり 垂井はまた養老にまさりぬといえり」

 「垂井の泉」(左)は古代から歌に詠まれた歌枕の地。

 昔見し たる井の水は かわらねど うつれる影ぞ 年をへにける
                          
詩花集 藤原隆経朝臣
 あさはかに 心なかけそ 玉すたれ たる井の水に 袖もぬれなむ
                         
藤川記 一条兼良

 芭蕉もここで一句(芭蕉句碑 右)
   葱白く 洗いあげたる 寒さかな  芭蕉翁

 街道に戻ると古民家のお休み処が目に入るが、ここは「旧旅籠の長浜屋」(左)。築200年以上の建物だが、取り壊される寸前に、歴史と文化を守る会が管理することに決まったのだとか。よかったよかった。


 その先左側の古民家は「江戸時代の商家」(右)。文化末年頃(1817頃)に建てられたという建物で、油屋卯吉なる人物が油商を営んでいたそうだ。宿場時代の代表的な商家構造である。

 商家の対面は「本竜寺」(左)。ここには高札場があったそうだ。山門は金岩脇本陣の門を明治初期に移設したもの。

 本竜寺の住職玄潭と芭蕉は親交が深く、 元禄4年(1691)、 芭蕉は当寺で冬篭りしている。この間に幾つか句を詠んでいるが、境内の一角、作り木塚の中の「芭蕉句碑」(右)にその一つが刻まれている。

 作り木の 庭をいさめる しくれ哉   はせを翁

 本竜寺を出て緩い坂道を上ると、「西の見付跡」(左)。当時はここで大名行列を迎えたのだそうだ。


 安藤広重の 「垂井宿」(右) には、雨の降る中山道松並木の中から大名行列が「垂井宿西の見付」に向ってくる様子が描かれている。

 旧中山道はこの先で東海道線の踏切を渡り、国道21号を歩道橋で越えていく。

 歩道橋を下りたら旧道に入って行くのだが、1〜2分歩くと「日守の茶屋跡」(左)が見られる。

 江戸末期、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)にあった秋風庵を明治期にここへ移し、中山道を通る旅人の休み場としたのだそうだ。昭和初期まで盛んに利用されていたのだとか。

 すぐ隣が「垂井一里塚」(右)で、左側が現存している。なんとなんと、中山道には多くの一里塚が現存しているが、国指定史蹟は2ヶ所だけ。ここがその1ヶ所。もう1ヶ所は東京・板橋の志村一里塚である。



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