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第56宿赤坂宿あかさかじゅく
 赤坂宿は、東山道時代から杭瀬川の舟待ち宿として存在していた
杭瀬宿が発展したもので、江戸時代に川港(赤坂港)が整備されると
物資の集散地として一層の賑わいとなった。 この賑わいは明治に
入っても続き、往時は三百隻もの舟がもやっていたとも言われている。
この賑わいも鉄道の開通とともに衰微していった。

平成21年2月3日   殿様が大喜びの「七回り半」、その前に「三回り半」も

 柳瀬一里塚から街道に戻り大垣輪中の堤防を越えて7〜8分歩くと、 「中仙道三回り半」(左) と刻まれた石碑が建てられている。

 「三回り半」 いったい何だろうか。

旧中山道は「石碑横を左に曲がっていく」(左)。道なりに5〜6分歩くと、その先はどこまでも真っ直ぐな「住宅街の中の中山道」(右)。

 ほどなく交差点際の小さな祠の中に「道標を兼ねた聖観音」(左)が祀られている。 その近くにいた古老が、この先にある「七回り半」(右)の云われを話してくれたのだが、これがなかなか面白い。


 古老の話によると、
 「参勤交代の時、殿様は大名行列の人数がが多いほど喜んだものだそうだ。ここへ来て曲がり毎に、前を見て満足し、後ろを見ては満足し、それを七回も繰り返し、最後に前に向き直って 半 だ。だから田んぼの中の道をわざわざクネクネと曲げたんだよ」。
 最後にポツリ、「こんな話ができるのもワシ一人になってしまったなー」

ここから平成22年3月11日

七回り半を抜けた中山道は住宅が点在する田んぼの中の道を進み、養老鉄道の東赤坂駅前踏切を越えていく。


 踏切を渡って300mほど歩いた先を左に入っていく道が旧中山道である。ほどなく白山神社があり、その先の民家前に「池尻一里塚跡碑」(左)が建てられている。

 国道417号に合流した先の杭瀬川を渡ると赤坂宿が近い。

 橋を渡って数分、旧杭瀬川に架かる赤い欄干の橋を渡ると赤坂宿であるが、渡る前にちょっと左を見ると「御使者場跡碑」(右)が見える。大名が宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所だそうだ。

 橋を渡った先が「赤坂港跡」(左)。江戸時代には杭瀬川がここを流れており川港が設けられて、周辺で産出する石灰や大理石の積出港として賑わっていた。

 明治に入ってもその賑わいは続いたのだが、大正時代に鉄道が敷かれると舟運は急速に衰微。

 昭和28年に杭瀬川の付け替え工事が行われ、現在は「旧杭瀬川港跡」(右)の小さな公園となっている。
 

 公園横の洋館は「赤坂港会館」(左)と呼ぶ資料館で、赤坂町の中心地にあたる中山道と谷汲街道の分岐点に、明治8年(1875)に建てられた警察屯所を復元したもの。

 本庄宿を歩いたとき、明治16年に建てられた旧本庄警察署の建物を見たが、当時の警察はなかなかモダンだったですねー。

 赤坂港跡の対面にそびえる高〜い櫓は「火の見櫓」(右)。赤坂宿を代表するモニュメントの一つである。 

 赤坂港跡から数分歩き、西濃鉄道の赤坂本町駅跡碑前を通り過ぎると赤坂宿の中心街。

 「本陣跡」(左)が「赤坂本陣公園」となっている。本陣役は馬渕家、平田家、谷家と続き、以降は矢橋家が明治初年まで務めている。

 公園の一角に据えられている銅像は、高杉晋作らと行動を共にした幕末の志士「所郁太郎像」(右)。刺客に襲われ重傷を負った井上聞多を、畳針で縫合手術し一命を救ったことが知られている。

 旧宿場街を歩いていると、一見 二階家風の家を見かけるが、これは「お嫁入り普請跡」(左下)。

 和宮降嫁に際して、二階建ての無い宿場だと和宮様が「なんと田舎にきてしまったのか」とお嘆きになる、 ということで急遽2階建て風に普請し直したのだそうだ。これには後日談が。

 街道に面する建物の改装を行ったのだが、その費用は10年返済の借金。ところが、幕府が崩壊したため数年でうやむやに。ラッキー!

 本陣跡の少し先、四ツ辻右側の「たにくみ道道標」は天和2年(1682)に設置されたもの。谷汲巡礼街道と伊勢に向う養老街道、そして中山道が交叉する赤坂宿の中心地。

 四ツ辻の向こう左側に見える古民家群は本陣を務めた「矢橋家住宅」(左)。写真の建物は天保4年(1833)に建てられたという大型町屋で、国登録有形文化財。


 矢橋家住宅の隣が「脇本陣跡」(右)で、宝暦年間以降は飯沼家が問屋兼務で務めていた。 明治以降は榎屋の屋号で旅館を営み、現在も営業を続けている。

 脇本陣跡から1軒置いた先の 「五七」(左)と看板が出ているお店はお休み処。赤坂宿が57番目(日本橋を含めて)の宿場なので五七。開運・勝運が売りの土産が沢山あります。


 その先を左に入った奥に「お茶屋敷跡」(右)がある。慶長9年(1604)、徳川家康が岐阜城の御殿を移築し、将軍専用の宿泊所としたもので、現在は牡丹園として一般開放されている。

 訪れた時はまだ固いつぼみの牡丹しか見られず残念。

 街道に戻り数分歩くと宿場の西入り口。ここにも「御使者場跡碑」(左)が建てられている。石碑の後ろは甲塚と呼ばれているが、関ヶ原合戦前日の戦で戦死した兵士の鎧兜が埋められているのだとか。


 兜塚の隣に思わぬ建物が。 かなり荒れ果てているが、西濃鉄道貨物線の「踏切番小屋」(右)が残されていたのです。遮断機を上げ下げするハンドルも残されたまま。産業の遺物ですかね。

 旧中山道はこの先の昼飯(ひるい)町を通り、東海道線の下を潜り抜けていくのだが、その途中で全長150mという巨大な昼飯大塚古墳が
左側の家並みの間からちらちら見える。

 大塚古墳の近くに「二ツ塚古墳」(左)と表示された可愛らしい古墳もありました。

 東海道線のガード下を通って十数分、案内板に従って左に入ると「照手姫水汲井戸」(右)と刻まれた石碑が立ち、その後ろに井戸がある。

 話せば長い物語になるが、土地の長者に「籠で水を汲んでこい」と難題を言われた照手姫が、小栗判官を偲びながらこの井戸で水を汲んだのだそうだ。

 街道に戻ると、すぐ先に史蹟の里 青墓と記された標柱が建てられているが、ここは「よしたけあん跡」(左)。

 牛若丸が奥州へ落ちのびるとき、この地で休憩し、葦の杖を地面に刺して「さしおくも形見となれや後の世に、源氏栄えば、よし竹となれ」と詠んのだが、なんと、葦の杖から芽が出て竹になったのだそうだ。

 ここに「小篠竹の塚」(右)がある。傍らの説明板に「青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃、両人ありし候や詳らか(つまびらか)ならず」と記してある。

 「よしたけあん」のすぐ先に中山道青墓宿と記された標柱が建てられているが、ここは東山道時代に宿場があった場所。
旧中山道は、その先の県道を斜めに横断し、住宅街へ入っていく。

 県道を横断して10分ほど先の教覚寺脇に「稲葉正休公碑」(左)が建てられている。江戸城三大刃傷事件の一つ、大老・堀田筑前守を殺害したのが稲葉石見守正休。松の廊下事件の17年前である。

 正休公碑前を通って先ほどの県道を横断すると、「美濃国分寺跡」(右)が広がっている。東西230m、南北250mという広大な敷地は、発掘調査が行われ国指定史蹟となっている。

 街道に戻り5〜6分歩くと「蒼野ケ原一里塚跡碑と常夜灯」(左)が見られる。江戸から111里、一 並びとは縁起が良い。


 この先は坦々とした道が垂井宿まで続くのだが、

 商店のそばで「ワン・・ワン」と呼ぶ声が聞こえる。犬好きが黙っているわけがない。近づくと「写真に撮って」(右)というような顔。カメラを向けると、なんとなんとカメラ目線。可愛いね〜



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