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第55宿美江寺宿みえじじゅく
 「美江寺」は奈良時代に建立された「美江寺観音」が地名の起源で、
門前町として賑わっていたのだが、戦国時代に、斎藤道三によって
本尊の十一面観音が持ち去られ寂れてしまった。
 しかし地名は残り、寛永14年
(1637)に中山道の宿駅として制定
されると再び賑わいを取り戻した宿場である。

平成22年2月3日      「四六のガマ」 ならぬ 「五六の川」 です。

 河渡宿を出てかれこれ40〜50分。「五六(ごろく)川」(左)に架かる五六橋を渡るとまもなく美江寺宿である。

 ところで、何故「五六」? この川を渡ると五十六番目の宿場である美江寺宿に入れるからなのだそうだ。 だがまてよ、何故56? 江戸時代の人は始点の日本橋を 一 と数えたようですよ。

 この先の樽見鉄道の踏切を渡るといよいよ宿場であるが入り口に「道標」(右)が1本。大正12年(1923)建立というからまだ新しい。


 道標の先を右に曲がってちょっと寄り道を。向かう先は瑞光寺

 山門前に松尾芭蕉門下の俳人の句碑が据えられているが、もちろん「芭蕉句碑」(左)もある。
 旅人と 我名呼れん 初時雨  芭蕉翁

 街道に戻り数分歩くと街道際に「美江寺一里塚跡碑」(右)が建てられているが、ここは江戸から108里目。

 もう少し先へ行くと生垣の中に「自然居士(じねんこじ)之墓」(左)なる石碑がある。石碑の後ろを通って奥へ入っていくと多数の五輪塔が。

 そもそも自然居士とはどのような人物なりや。各地に墓があるが、今一歩よく分からん人物である。

 街道に戻ると、斜め向こうに「布屋」(右)という屋号の酒屋さん見える。元々は元禄9年(1696)創業の造り酒屋で、この建物は濃尾地震でも倒壊しなかったしっかりもの。

 その先右側は「美江神社」(左)。歴史は古く、平安時代の「美濃国神明帳」に美江明神という記載が見られる。また、斎藤道三によって稲葉山城下に移された美江寺があった場所でもある。

 美江神社の奥にある美江寺観音堂は、永禄10年(1567)、織田信長の命で建立されたのだとか。

 境内に美江寺宿碑「高札場」(右)が復元されている。江戸時代の象徴というと「本陣」と「高札場」が筆頭。本陣復元にはちょっと手が出ないが、高札場なら役場のポケットマネーで、というところかな。

 神社前の道が左に曲がる枡形。その角に「虫籠窓」のある大きな建物があるが、ここは「旧庄屋・和田家」(左)。和田家は美江寺城主和田氏の末裔と伝えられているそうだ。


 枡形道を曲がった先に「本陣跡碑」(左)が建てられている。加納藩によって開設された本陣は濃尾地震で倒壊。その後再建されたが平成3年(1991)に取り壊されてしまった。

 本陣手前を左に入った奥の小学校校庭はかつての美江寺城跡。校庭の左端に「美江寺城址碑」(左)が建てられている。

 美江寺城は和田氏の居城であったが、斎藤道三に攻められ天文11年(1542)に落城。


 街道に戻って2〜3分歩くと再び枡形道となるが、右へ曲がったところに「道標」(右)が建てられている。「左大垣墨俣ニ至ル」と刻まれているが、右へ曲がらず真っ直ぐ行くと一夜城で有名な墨俣方面。

 中山道は右へ曲がっていくのだが、またまた寄り道を。右へ曲がらず真っ直ぐ進み、すぐに犀川の土手道に上って熊野神社へ。

 熊野神社は十七条城跡にあるのだが、十七条城の城主・稲葉正成の妻が後の「春日の局」。境内に「春日局ゆかりの地碑」(左)が建てられている。

 街道に戻り、右へ曲がったすぐ先のお堂は「千手観音堂」(右)。祀られているのは天保4年(1833)に寄進された石造千手観音。

千手観音堂の先はちょっと複雑で間違えやすい。

観音堂を過ぎたら道なりに
歩き、白い祠が見えたら
左へ曲がっていく。

その先は「旧中山道」の
標識に従って、犀川沿いの
道を歩く。
県道に出たら学校沿いに歩き
「大月浄水公園」で
説明板を読みながらちょっと
休憩を。

すぐ先の「小簾紅園」の標識に
従って右へ曲がり、

60mほど先で左へ曲がって、
その先は真っ直ぐ揖斐川の
堤防を目指す。
堤防に突き当たったら左へ曲がり、鷺田橋下のトンネルを通ったら土手をよじ登ると、鷺田橋の歩道近くに出られる。

 「揖斐川(旧呂久川)」(左)は、かつてはもう少し西側を流れており、天正8年(1580)に織田信忠によって呂久の渡しが開設されている。

 橋を渡って歩道橋を下り、川沿いに歩いていくと「良縁寺」というなんとも目出度い寺がある。旧中山道はその前を右に曲がっていく。

 ほどなく「馬渕家長屋門」(右)が見えてくる。渡船が賑わったころ、船年寄の馬渕家には船頭8人、助務7人が置かれていたそうだ。門脇に明治天皇御小休所跡碑が建てられており格式の高さが伺われる。

 おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく
                             こがれこそすれ

 和宮が呂久川を御座船で渡るとき、馬渕家の庭の紅葉を簾の中から目にして詠われたのだが、この御渡船を記念して造られたのが「小簾(おず)紅園」(冒頭写真)で、その中心に「歌碑」(左)が建てられている。

 また、この地は、かつて「呂久の渡し 渡船場があった場所」(右)。大正14年(1925)に河川付け替え工事が行われ、渡船の長い歴史も終わりとなった。
 小簾紅園を出て5〜6分、平野井川を越え大垣輪中の堤防坂道を上っていくと「左木曽路 右すのまた宿道」と刻まれた「道標」(左)が建てられている。 「木曽路」 懐かしいね〜、数ヶ月前に歩いてきた道だ。

 坂を上りきる手前で堤防を下り、対岸の神明宮へ寄り道を。神明宮の境内外れに「柳瀬一里塚跡標柱」(右)と説明板が建てられている。

 次の宿場は赤坂宿だが、その途中に「三回半」、「七回半」という変わった地名があるそうだ。



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