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第54宿河渡宿ごうどじゅく
 河渡宿は長良川右岸堤下の宿場で、常に洪水に悩まされていた。
文化12年
(1815)、宿場も絶えるのではないかと言われるほどの
未曾有の洪水にみまわれたため、 宿場全体を五尺(約1、5m)
土盛しその上に建物を建て直したという経緯を持つ宿場である。


平成22年2月3日   河渡宿(ごうどじゅく)は町並み3町(約330m)という小さな小さな宿場でした。

 旧中山道を少々外れてしまったが、「江戸時代から続く渡し舟」(左)に乗れるとは幸せな。これまで東海道を初めとして五街道を歩いてきたが、渡し舟に乗れたのは初めてだ。

 対岸に渡り堤防上の道を下っていくと、彼方に「河渡橋」(右)が小さく見える。

 旧中山道は、河渡橋近くにあった「河渡の渡し」で長良川を越えていたのだが、明治14年(1881)に橋が架けられ渡しは終了。

 堤防上の道をてくてく歩き、河渡橋の下を通って数分歩くと堤防下に「観音堂」(左)が見えてくる。

 観音堂縁起によると、天保13年(1842)に宿場の荷駄役達が銭百文づつ寄進し、愛染明王を奉祀したのだとか。地元の人は 馬頭観音さん と呼んで大事に守ってきたのだそうだ。

 観音堂の隣に木製の「常夜灯」(右)が建てられているが、こういうのを見ると「中山道の宿場」そんな雰囲気が伝わってくるねー。

 堤防下をさらに200mほど歩き右に曲がると「河渡宿」に入れる。右に曲がって数分、民家の間に鎮座しているのは「松下神社」(左)。

 傍らの説明碑によると「文化12年の洪水で宿場存続の危機に見舞われたが、時の代官松下内匠が5尺の土盛をして宿を存続させた。この功績に村人は松下神社を建立」とある。時代劇では悪代官ばかりが目につくが松下代官は偉い。

 ここは一里塚があった場所。入り口の「河渡宿碑」は「一里塚跡碑」(右)でもある。

 河渡宿は渡船場に設けられた小さな小さな宿場で、人口300人弱、長さ僅か3町(約330m)。 あっという間に通り過ぎてしまう「旧河渡宿の町並み」(左)に昔の面影は少ない。

 河渡宿を出て慶応橋を渡ると生津畷(なわて)。見渡す限り真っ直ぐな道は彼方が霞んで見えないんだなー。

 県道を横切り、突き当たりを右に曲がって10分ほど歩くと「馬場の追分」(右)に到着。一段高い所に地蔵堂があるが、道標は無い。中山道は左に曲がっていく。

 数分歩いて糸貫橋を渡ると前方に「本田の地蔵堂」(左)が見える。背面に文化6年(1869)と刻まれた地蔵は、高さ90センチの石仏坐像。大変柔和なお顔をしています。

 その先へ数分歩くと本田(ほんでん)立場跡。ここは僅かな区間であるが味わい深い町並みである。

 小さな川を渡った先は「本田代官所跡」(右)。江戸時代の一時期、この辺りは幕府直轄地であったことから代官所が置かれたことがあった。100mほど先に高札場跡跡が。



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