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第53宿加納宿かのうじゅく
 加納城の城下町として発展した加納宿は、旅籠35軒、戸数800余、
人口2700人余という大きな宿場であった。
 町並みは21町30間
(約2、4km)という長さであったが、戦災でほとんど
焼失し、往時の面影は彼方まで真っ直ぐ続く街道だけとなってしまった。

 町並みには石碑や説明板が丁寧に設置されているので、当時の様子を
想像しながら歩く楽しみがある。

平成22年2月2日  旧中山道をちょっと外れてしまいましたが、渡し舟で長良川を渡河しました。

鵜沼宿を出てから「山の前一里塚跡」を通り、「六軒一里塚跡」を通ってかれこれ2時間半、そろそろ「立場跡」があるはずだが。

 立場跡はまだ見えないが「こも被りに酒林」が見えたではないか。ここは「蔵元 林本店」(左)。創業は大正9年(1920)というから90年前。大吟醸「栄一」は長良川の伏流水で仕込むのだとか。

 少し先に真っ赤な鳥居があるが、ここは「日吉神社」(右)。

 ごく当たり前の神社だと思っていたが、帰ってから調べたところ狛犬ならぬ「狛蛙」が参拝客を見守っているのだそうだ。もう少し奥まで入っていれば気が付いたのに。残念!

 日吉神社から街道に戻って数分、道路が二股に分かれた突き当たりに説明板が。

 この辺りは「新加納立場跡」(左)。説明板に 「鵜沼宿と加納宿の間は四里十町(約17km)と距離が長いため、立場と呼ばれる小休所がここに設けられた」 とある。皇女和宮もここで休息したそうだ。

 説明板の横に「新加納一里塚跡標柱」(右)が建てられている。旧中山道は真っ直ぐの道で、右に曲がる道は後から付けられたもの。

 真っ直ぐ進んだ突き当たりは「旧御典医の今尾家」(左)。中山道はここを右に曲がっていくのだが、左に曲がると登録有形文化財となっている今尾家の建物が見られる。

 今尾家の塀に沿って進むと突き当たりが少林寺。ここに岐阜県指定文化財の「東陽英朝禅師塔所」(右)がある。

 東陽英朝は少林寺の開山者であるが、二宿前の太田宿で立ち寄った祐泉寺の創建者でもあった。

 

 街道に戻り再び旧中山道を歩くこと30〜40分、T字路に突き当たるが、旧中山道は右に曲がっていく。しかしここでちょっと寄り道を。

 T字路左側の「鳥居」(左)をくぐって500mほど歩くと貞観2年(860)創建という手力雄(てじからお)神社に行かれる。祀られているのは「天の岩戸開き」で活躍した「天手力雄命」だそうだ。

 この神社で毎年4月第2土曜日に 「手力の火祭」(右)が行われるのだが、岐阜市観光コンベンション課から提供して頂いた写真を見ると、降り注ぐ火の粉の中に裸の男達が神輿を担いで飛び込んでいく。なんとも豪快!
写真提供:岐阜市

 先ほどのT字路に戻って右に数分歩くと岐阜信金があるが、ここは「磐城平藩の陣屋跡」(左)。

 説明板によると、この辺りの地名を「切通」というが、享保3年(1802)に磐城平藩の所領となり陣屋が設けられていた。また手力雄神社からこの辺りまでは立場で大変賑わっていたそうだ。

 陣屋跡から7〜8分歩くと街道際に「馬頭観音」(右)があるが、その隣にある「伊豆神社」(右)は、由緒によると大山祗神の娘「石長姫命」が祭神で、「天手力雄命」をおいさめする目的で鎮座されたのだとか。

 旧中山道はこの先10分ほどで国道156号を横断するが、横断して数分の所に「細畑一里塚」(左)がある。ここは左右とも現存しているという貴重な一里塚。

 一里塚からさらに数分歩くとY字路となるが、お堂の中に鎮座しているのは「延命地蔵」(右)。

 このY字路は伊勢方面との追分で、「追分道標」(右)が建てられている。刻まれている文字は「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里 西京道加納宿兀八丁」。

 この先1kmほど歩くと、中山道を歩いているのにどういう分けか東海道線の下を通っていく。

 その先数分、名鉄名古屋本線の踏切を渡ると「加納宿碑」(左)が建てられており、その先を左に曲がると「鏡岩の碑」(右)が見られる。

 この碑は江戸時代の力士「鏡岩浜之助」にちなむもので、素行が悪かった鏡岩は、改心して、ぶたれる為に等身大の自分の木造を置いて罪滅ぼしをしたのだとか。

 旧中山道は名鉄線の踏切を渡った先100mほどで右にまがっていくのだが、その先は右折左折と枡形が続くのでちょっと複雑。しかし旧中山道はカラー舗装されているので、この上を歩けば安心。

 右に曲がって加納大橋を渡ると、その先の「枡形道」(左)に「道標」(左)が建てられているがここを左に曲がっていく。

 次の枡形道手前に「東番所跡碑」(右)が建てられている。街道はここを左に曲がり、すぐに右へ曲がって県道を横断していく。

 県道を横断した先の下水溝のふたに「御鮨街道」(左)と記されている。御鮨街道?ラーメン街道なら知っているが、お鮨街道は初めてだ。

 居合わせた男性に聞くと、「自分もよー分からんのよ。確かあの看板に書いてあったような気がするなー」。

 なるほど、「民家の壁に説明板」(右)が。「岐阜問屋跡」の説明板であるが、後半に御鮨街道のことが記されている。
 尾張藩が将軍家へ献上する岐阜名産品の「鮎鮨」を、岐阜問屋から笠松問屋まで届けた街道のことを「御鮨街道」と呼んだのだそうだ。

 突き当たりに道標があるが、ここは「左に曲がる枡形道」(左)。今は丁路となっている。

 ここでちょっと寄り道を。

 左に曲がらず右に曲がると、線路を越えた先の光国寺に家康と築山御前の長女「亀姫之墓」(右)がある。

街道に戻り橋を渡ると高札場跡の説明板が建てられている。当時は「宿御高札場」と呼ばれていたそうだ。

 橋を渡った先で右に曲がる道が旧中山道であるが、真っ直ぐ先の歩道橋下に「加納城大手門跡碑」(左)が建てられているので、またまた寄り道を。

 歩道橋を渡った先は 「加納城本丸跡」(右)。 加納城は徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した直後に築城を命じた城で、初代城主は亀姫の婿、奥平信昌であった。

 明治維新で徹底的に破壊されてしまい、今は本丸跡と一部の石垣だけが残っている。

ここから平成22年2月3日

 街道に戻って右に曲がると、 あっ、「ドラキュラ館?」(左)。夕方になると蝙蝠(こうもり)が飛び出してきそうな。旧加納町役場跡だが人目を引きますなー。

 まもなく「二文字(にもんじ)屋」(右)の看板が見えてくる。元和6年(1620)創業の旅籠であったが、現在はうなぎを主とした割烹料理の店。

 二文字屋に「月夜に川原で餅をつくウサギ」が彫られた欄間があるそうだが、なんと、ここに泊まった左甚五郎が彫ったものだとか。
注:説明板には、火事で・・・・と記されているが、今も存在するとは書かれていない。

この辺りから宿場の中心街となるのだが、戦災でほとんどの建物が焼失してしまったため石碑で往時を知るのみである。


旧中山道は、まもなく東海道線の高架下を通り、道なりに歩いて県道の岐阜東西線を横断していく。

 県道を横断した所に「多羅野(だらり)八幡神社」(左)があるが、この辺りは松並木が続く風光明媚な街道だったようだ。また茶店で売られていた「だらり餅」は旅人に大変人気があったのだとか。

 まもなく乙津寺(おつしんじ)の石塔が。ここにもちょっと寄り道だ。

 行基が開山したという乙津寺は奈良時代の創建。応仁の乱でこの地に逃れてきた「一条兼良正室 東御方(ひがしのおんかた)墓」(右)がある。本堂裏手には四国八十八ケ所霊場を一度に回れるとう石仏霊場も。

 ここまで来て街道に戻ってしまうのはもったいない。 乙津寺裏の長良川に今も現役の渡し舟がある。その名は「小紅の渡し」(左)。

 江戸時代から中山道の「河渡の渡し」とともに栄えていたが、今も県道文殊茶屋新田線の一部として運行されている。

 「小紅の渡し」 なんとも色っぽい名前だが、お紅という女性船頭がいたとも、川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直した、とも。どちらもいいね〜

 舟は対岸に居ることが多い。手を振って合図するとやってくる。

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