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第52宿鵜沼宿うぬまじゅく
 鵜沼は東山道時代から宿駅が置かれ、交通・経済の要衝地であった。
慶安4年
(1651)に、うとう峠を越える道が整備され中山道のルートが変更されたが、これに伴い宿場も現在地に移されている。
 明治24年
(1891)の濃尾地震で大きな被害を受けたため趣きのある
古民家は少ないが、それでも街道沿いに数棟見られる。

平成22年1月6日   「ねずみ小僧次郎吉の碑」がありました。

太田宿を出てかれこれ1時間半、国道下のトンネルを抜けると、その先は「旧中山道うとう坂」(左)である。

 御嵩宿の手前に 「謡坂(うとうさか)」 という坂道があったが、こちらは「疎ましい坂道」なる意味の「うとう坂」だそうだ。

 名前の由来はともかく、落ち葉を踏みながら登る山道は極めて快適。ほどなく「整備された石畳道」(右)が出現するが、この辺りは「日本ラインうぬまの森」と呼ぶ市民憩いの散策路なのだとか。

 

 頂上近くの街道際にある小さな供養塔は「小田原宿喜右衛門供養塔」(左)と呼ばれ、うとう峠で盗賊に襲われ命を落とした旅人を弔うために建てたものだとか。今も地元の人が手厚くお守りしている。


 その先の峠を越えた所に「うとう峠一里塚」(右)の右側が現存している。左側は、戦時中に陸軍兵舎を建てるために半分以上削ってしまったということで、今は僅かに痕跡が残る程度となってしまった。

一里塚までは江戸時代を想像しながらの街道歩きであったが、森を抜けたら、それこそ突然にマンション群が目に飛び込んできたのである。

 一気に現代に引き戻されてしまった感じだが、江戸時代の息吹が感じられる「うとう峠」も、ひたひたと時代の波に侵食されているような。

 この先は右に左にと曲がりながら舗装された急坂を下るのだが、「要所に表示がある」(左)ので安心して歩ける。

 住宅街を下ってくると、雑草の生えた広場に、元禄11年(1698)、享保17年(1732)、明和3年(1766)など年代物がずらり並んだ「赤坂の石塔群」(右)が。

 さらに坂を下り、右に曲がった所にある祠は「赤坂の地蔵堂」(左)。道標を兼ねた地蔵様には「左ハ江戸せんこうしみち 右はさいしょ(在所)みち」と刻まれている。

 赤坂神社参道の前を通り4〜5分歩くと交差点際に、「高札場」(右)が復元されている。まだ真新しいが、「中山道 宿村大概帳」に基づいて当時のままに復元したのだとか。

宿村大概帳:幕府の道中奉行が、五街道とその脇街道を調査したときの記録。

 この交差点には手前と向こう側に、都合2本の「尾州領傍示石」が建てられている。元々ここに在った分けではないが、解説板を読むと、設置されていた位置関係が面白い。


尾州藩を通る中山道は、鵜沼村から各務村(天領)を通って、再び鵜沼村に入っている。僅かな区間でもしっかりと自領を主張していたのです。

その先の「大安寺橋」(冒頭の写真)を渡ると、いよいよ宿場の中心街へと入っていく。

 橋を渡ったすぐ先の古民家は「町屋館」(左)と呼ばれる資料館。元々は江戸時代に絹屋と呼ばれる旅籠で、明治の初めから昭和39年(1964)まで郵便局を営んでいた旧武藤家建物である。

 現在の建物は明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊後に建てられたものだが、江戸時代の旅籠の形式がよく残っている。

町屋館の裏庭に、ガラス張りの小屋に収まった「芭蕉句碑」(右)がありました。
 ふぐ汁も 喰えば喰せよ(くわせよ) 菊の酒
コメント:芭蕉句碑は坂井脇本陣跡に3基あったのだが、脇本陣復元工事が始まったことから、この1基が町屋館に移され展示されている。

 町屋館の対面の立派な門は「旧大垣城鉄(くろがね)門」(左)。

 当時の新聞記事によると、「各務原(かがみはら)市に寄贈された旧家の門が、旧大垣城本丸の鉄門であったことが判明。この形式の門は名古屋城と大坂城の2例のみで、いずれも国重要文化財」なのだそうだ。

 町屋館のすぐ先が「坂井家脇本陣跡」(右)であったが、現在(平成22年1月)、復元工事が進められている。近々には一般公開されるだろう。 

 脇本陣のすぐ先に見える黒塗りの大きな建物は「菊川酒造の本蔵」(左)。明治4年の創業であるが、本蔵は大正時代の後半に建てられたもの。なんとなんと「豆蔵」と称する小さな小さな蔵もあるそうだ。

 菊川酒造のすぐ先に 「国登録有形文化財」(右) に指定された古民家が4棟並んでいる。

 手前から、丸一屋と称し旅籠であった明治27年建築の坂井家。 次は唯一江戸時代の建物で、旅籠であった茗荷屋梅田家。 3棟目は明治元年建築の梅田家。 4棟目は昭和5年建築の安田家である。

 次の交差点まで来ると「鵜沼宿碑」(左)が建てられているが鵜沼宿散策マップには、もう少し先に「西の見付」があったと記されている。しかし、見付は見つけ られなかった。

 鵜沼宿碑から5〜6分歩くと「衣裳塚古墳」(右)を見ることができる。説明板には「直径52mという県下最大の円墳だが、前方後円墳だった可能性もある」と記されている。前方後円墳ならかなり大きい。

 

 さらに十数分歩いた先の津島神社境内に農村歌舞伎の舞台となる「皆楽座」(左)がある。回り舞台、奈落、囃子座、楽屋も備えた本格的舞台であるが、今はコンサートなどに使われているそうだ。

 まもなく国道に合流。江戸時代は荒涼たる各務ケ原(かがみがはら)原野。次の加納宿まで四里七町(約17km)。辛い旅ではなかったろうか。

 ほどなく国道は上り坂の陸橋となるが、旅人は側道を。中ほどまで歩いたら左に曲がってちょっと戻ると「播流上人碑」(右)が見られるが、ここは山の前一里塚があった場所。

ここから平成22年2月2日

この先暫くは国道21号を歩くのだが、国道はなんとも味気ない道路なのである。なにか変わったことはないかと思っていたら、

 なんともレトロな 「昭和食堂」(左) のカンバンが。おっ、あのポスター「力道山」(左)ではないか。「緋牡丹博徒」「嵐を呼ぶ男」「月光仮面」ポスターも、懐かしいね〜


 ところで、この辺は「二十軒」という立場があり賑わった場所。二十軒に係わる何か無いかと探したら「バス停二十軒」(右)がありました。

 暫く歩くと交差点際の祠の中に「三面六臂の観音像」(左)が。この穏やかなお顔がなんともたまりません。

 この先も国道をてくてくと。三柿野駅近くで国道は名鉄・各務原(かがみはら)線を越えるために坂を上っていくのだが、旅人は側道を。

 側道右側のフェンスの中は川崎重工の工場。 おっと、向こうに見えるのは「戦闘機」(右)ではないか。 さっそくカメラを向けて写真を撮っていたらガードマンがふっ飛んで来た、、、なんてことは無いな。

三柿野駅前から階段を上って名鉄・各務原線を越え10分ほど歩くと、やっと国道から離れ静かな旧中山道へと入っていく。

 5〜6分歩くと「六軒一里塚跡標柱」(左)が建てられている。その昔は「六軒茶屋」と呼ばれていた立場。今は見渡す限り家・家・・・。

 各務原市役所隣の市民公園まで来たらちょっと寄り道を。川沿いに右に曲がり、名鉄の踏切を渡って幼稚園と線路の間を入っていくと、

 「ねずみ小僧次郎吉の碑」(右)があるが、こんな伝説が。
 各務原台地にポツンと建つ「いろは茶屋」。旅の娘が泊まったのだが、言い知れぬ不安を覚え隣部屋の六十六部に部屋を変わってもらったのだった。夜中になると、六十六部の枕元に男が。取り押さえてみると宿の主人で、夜な夜な泊り客の金品を奪い殺していたのである。 実は、この六十六部は「ねずみ小僧次郎吉」だったのです。



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