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中山道道中記


第51宿太田宿  おおたじゅく
 「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」 と唄われたほど難所であった「太田の渡し」を渡ると、いよいよ太田宿である。ここは落合宿から鵜沼宿までを管理していた尾張藩の代官所が置かれていたことから、東美濃の政治、経済、文化の中心地でもあった。

平成22年1月5日   中山道にも ロマンチック街道 がありました。

 難所であった太田の渡しに替わって 「太田橋」(左) が出来たことで難所解消。 と思いきや、歩道が無く狭い車道をひっきりなしに車が通る太田橋は、旧中山道を旅する者にとっては命がけ。

 と思っていたら、平成20年に歩行者専用橋が造られたので今は安心。 しかし橋を渡ったらまたまた難問が。橋のすぐ下が渡し場であったので、そこへ行きたいのだが、道が無い。

 道路向こう側の「化石林公園」(右)という看板下に「中山道」と表示が。車の合間を狙ってエイヤッ、車道を横断し柵を乗り越えて公園へ。

 公園休憩所のすぐ下が「太田の渡し入り口の石畳」(左)。江戸時代後期からスタートした太田の渡しは、太田橋が出来る昭和2年(1927)まで続いていた。

 石畳道を出た旧中山道は木曽川右岸の河川敷を通っていたようだが、堤防工事が行われたためほぼ消滅状態。

 ここは素直に「堤防上の遊歩道」(右)を歩くことに。

 

 ほどなく「古井(こび)一里塚跡」があるはず。美濃加茂市観光協会発行の中山道太田宿案内絵図には文化会館横に「一里塚跡」と記載されている。ところが、いくら探しても見つからんのです。

 かつて中山道を歩かれた方々の紀行文にも「見つからなかった」とある。「一里塚跡付近」(左)に形の良い松があったのでこれで我慢だ。

 一里塚跡付近から5〜6分、堤防の下に水神や秋葉神社、御嶽神社など5基の「石塔群」(右)が見える。堤防工事で集められたものだろう。

 石塔群の先から右に入る細い道を進み、車道に出たら左へ曲がると、黒い標柱に「新町木戸門跡」(左)と記されている。いよいよ太田宿に入ってきた。


 数分歩くと江戸側の「枡形道」(右)だが、今はうっかりしていると枡形と分からず通過してしまいそう。

 枡形の手前左に文明6年(1474)開創という祐泉寺と、朱鮮やかな鳥居が並ぶ太田稲荷がある。

ここから平成22年1月6日

枡形道を抜けると宿場の中心街に入るのだが、手前の祐泉寺と太田稲荷で幾つかの石碑を見ていくことに。

春なれや
  名も無き山の
     朝かすみ  芭蕉
やま椿さけるを見ればいにしへを
       幼きときを神の代とおもふ

この木の実ふりにし事のしのばれて
         山椿はないとなつかしも
細葉堅秋雨ふれり
    うちみるや
      石燈籠のあを苔のいろ

                   白秋
  太田稲荷では槍ヶ岳の開祖として知られる「播隆上人(ばんりゅうしょうにん)墓碑」と、美濃加茂から犬山までの木曽川の景観を
「日本ライン」と命名した「志賀重昴
(しげたか)墓碑」を見ることができる。

街道に戻って枡形道を抜けた所の卯建の上がった立派な建物は「旧旅籠小松屋」(左)。今は資料館になっているが、かつては、お伊勢参りなどの定宿であったそうだ。

 小松屋の先の格子戸の嵌められた古民家は、永楽通寶を看板にした永楽屋という呉服店。

 永楽屋の少し先が御代桜酒造であるが、店の横を曲がった奥の「酒蔵」(右)が並んだ景色はなんとも趣きがある。

 御代桜酒造の斜め対面の建物は「脇本陣林家」(左)。主屋は明和6年(1769)、表門は天保2年(1831)の建築である。国重要文化財となっているが、今も林家の住居となっているため見学はできない。

 ちなみに、写真の右側の建物は隠居所として建てられた建物であるが、こちらは見学ができる。

 脇本陣の斜め前が福田家本陣であったが、今は「本陣門」(右)だけが当時を偲ばせてくれる。この門は皇女和宮降嫁の際に、新築されたものだそうだ。

 太田宿の事を知ろうと立ち寄ったのが本陣門対面の「中山道会館」(左)。太田宿の歴史や文化が手際よく展示されているが、ちょっと物足りないかな。


 ところが思わぬものが。 岡本一平が晩年を過ごした糸遊庵が復元されていたのです。室内には62歳で帰らぬ人となった一平の書斎が復元され、「味わいのある絵」(右)も何点か展示されている。

 

 中山道会館の裏手に回ると「川並番所跡」(左)が見られる。尾張藩は「白木改め番所」を各所に設けていたが、木曽川を上下する舟や筏もしっかり管理していたのであった。

 街道に戻って2〜3分歩くと十字路に差し掛かるが、その手前が高札場跡で、説明板が建てられている。

 またこの十字路は郡上街道との追分でもあった。十字路向こう側の「追分道標」(右)は明治26年(1893)に建立されたもので、刻まれている文字は「右 関上有知 左 西京伊勢 道」。

 旧中山道はこの十字路を左に曲がり、突き当たりを右に曲がて(ここは京側枡形)、すぐ先の国道高架下を通ったら再び左へ曲がり
木曽川の土手道に出るのだが、ちょっと寄り道を。

 真っ直ぐ進むと「太田代官所跡」(左)と記された説明板が建てられているが、ここは東濃一帯を治めていた尾張藩代官所があった場所。現在は太田小学校の敷地となっている。

 その代官所の役人であった坪内平之進の末子として安政6年(1859)に誕生したのが明治の文豪坪内逍遥。

 小学校脇の道を通って学校正面側に回ると「坪内逍遥顕彰碑」(左)と説明板を見ることができる。

 街道に戻り堤防道方向に曲がると、天明2年(1782)の「太田村絵図」に描かれていたという「虚空蔵堂」(左)がある。

 このあたりは、承久3年(1221)の「承久の乱」で、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が木曽川を挟んで激しく戦った場所だそうな。

 当時の街道はここから段丘を下って木曽川沿いに歩いたそうだが、今は堤防の上を。 暫く歩くと堤防下に深田神社があるが、神社横の「庚申像」(右)は寛文10年(1670)に彫られたものだとか。

 この先の旧中山道も堤防工事で消滅状態であるため深田神社の脇を通って国道21号を歩くことに。 「坂祝(さかほぎ)町」(左)あたりまで来ると旧中山道と国道21号が重なってくる。


 しばらく歩くと「坂祝町 取組」と記された標識のすぐ下に「一里塚趾」(右)の標柱が建てられているが、ここは99番目の「取組一里塚」があった場所。ガードレールの陰でちょっと分かりにくい。

 

 この先も国道を歩くのだが少々味気ない思いをしていたところ「ロマンチック街道」(左)と記された看板が。


 土手を駆け登ってみると、天下の絶景 「日本ライン」 を眺めながら歩く堤防上の道。まさに「ロマンチック街道」(右)である。季節が良ければライン下りの舟を見ながら歩くこともできる。

 この道も20分ほどで終わり、再び国道21号を歩くことに。
 

 ほどなく崖の中腹へ上っていく道があるが、ここが旧中山道で「岩屋観音堂」(左)への参道でもある。崖の中腹の岩穴にある観音堂は、年代は不詳だが江戸時代の建立だとか。

 今は整備され安心して歩ける道だが、かつてはかなり厳しい崖づたいであったようだ。この先の旧中山道の道筋がちょっとはっきりしない。

 観音堂前の階段を下り再び国道21号へ。10分ほど歩いて人家が現れたら左に移り「カフェテラスゆらぎ」の先の階段を下って「ちょっと無気味なトンネル」(右)を潜ると旧中山道に復帰できる。

トンネルの先からは、ちょっとした山越えとなる。



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