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第50宿伏見宿 ふしみじゅく
 伏見宿は、木曽川の流れの変化で渡し場の位置が上流に移動し
廃宿となった土田
(どた)宿に変わって、元禄7年(1694)に新設された
宿場である。
 しかし、宿場の機能はあまり発展せず、嘉永元年
(1848)の大火で
焼失した本陣は再建されることがなかった。

平成22年1月5日    「らくだ」という お休み処があったが、「らくだ」ってこの「駱駝」?

比衣一里塚跡碑前から脇道に入った旧中山道は暫く歩くと再び国道21号旧道に合流して、緩い坂道を上っていく。

 ほどなく国道の植え込みに見えたのは「伏見宿 本陣之跡碑」(左)。

 新設された宿場であったが大きく発展することはなかった。嘉永元年(1848)に本陣はじめ26戸を焼失する大火が発生したが、その後、本陣は再建されることなく明治維新を迎えている。

 本陣跡碑の隣に「是よ里東尾州領」(右)と刻まれた領界碑が建てられている。この領界碑はもともとここにあったのではなく西坂から移設したもの。

 伏見宿は、宿内を国道21号が通ってしまったため往時の面影は少ないが、伏見交差点まで来ると、少しでも宿場時代の面影をと、「宿場行灯」(左)が置かれているではないか。いいね〜

 ここは最近できた一本松公園。トイレや東屋の立派な休憩所もあり、旅人を癒してくれる。

 街道際には「道標」(右)も設置されている。刻まれている文字は「右 御嶽  左 兼山 八百津」と。ここは斉藤道三の養子である斉藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分でもある。

旧中山道は、伏見交差点を渡って直進していくのだが、ちょっと寄り道したいので左へ。

 左に曲がって数分、小学校前を進むと「東寺山古墳」(左)を見ることができる。木が茂り全体像が見えにくいが、ここは前方後円墳ならぬ 前方後方墳 。三角形と四角形を繋げたような。

 小学校前まで戻り、ついでに 洞興寺 に寄り道を。

 寺の右側に「女郎塚」(右)と呼ばれる多数の石仏が祀られた塚がある。宿場時代、数多くの飯盛女が働いていたが、身寄りの無い人も多く、この塚に懇ろに葬ったので女郎塚と呼ばれるようになったのだとか。

街道に戻ると趣きある建物が2棟。「旧旅籠三吉屋」(左)の建物だが、お休み処らくだと表示されている。「らくだ」って「駱駝」のこと?

 実は、文政7年(1824)、伏見宿に駱駝がやってきているのです。幕府献上品として輸入した駱駝が幕府から断られ、興行師の手に渡って伏見宿で3日ほど滞在したのだそうだ。

 この先はごくごく普通の町並み。上恵戸交差点まできたら右に曲がり4〜5分歩くと「新村湊跡」(右)が見られる。といっても木曽川が見えるだけだが、かつては水運で賑わった場所。

 上恵戸交差点まで戻ると、「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」と刻まれた「道標」(左)が建てられている。裏に大正四年と刻まれていることから、この時代の木曽川はまだ 渡し舟 だったんですね。

 この先は国道21号旧道を15分ほど歩き、さらにバイパスに合流して10分ほど歩くと地下道入り口と国道の間に真新しい「恵戸一里塚跡碑」(右)が建てられている。

 一里塚跡碑を建ててくれたのは嬉しいのだが、ごちゃごちゃと書き過ぎているのが良くないんだなー。

 旧中山道はその先で国道から分かれ、卸売市場に沿って進んでいく。

 ほどなくJR太田線の踏み切りを渡るのだが、その手前に5〜6基の石碑が建てられた「辞世塚」(左)なるものがある。一言 言いたい人達が石碑を作ってしまったようだ。

 踏み切りを渡って30分弱歩いた先の龍洞寺「龍の枕石」(右)と云われる石がある。その昔、この近くに雌雄の龍が住んでいたそうだが、その龍の寝枕なんだって。

次の宿場である太田宿へ行くには龍洞寺先から右へ曲がり太田橋を渡っていくのだが、古中山道は真っ直ぐ進んでいた。

 右へ曲がらず真っ直ぐ進み数分、弘法大師のノボリはためく道を入っていくと階段下に「弘法堂」(左)が見える。旧中山道はこの脇を通って木曽川に降りていたのであった。

 ここは 「今渡(いまわたり)の渡し場跡」(右) で、江戸時代後期から、太田橋が架けられる昭和2年までの渡し場であった。

 ところで、「木曽の桟 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」 と詠まれたほど、木曽川の増水による川止めに悩まされた渡しでもあった。
 コメント:この渡しは対岸では「太田の渡し」と呼んでいた。

 渡し場跡から下流に向かって1kmほど「遊歩道」(左)が整備されている。ここまで来て散歩もないものだが、ちょっと足を伸ばしてみたら、なんと平家伝説に係わる「夜泣き石」(右)なるものが。

 その伝説とは
 文治元年(1185)、平知盛が壇ノ浦で海に身を投げたことを知った知盛の妻は、悶々としてこの近くの淵に身を投げて死んだのだとか。後に、月の澄んだ夜になると、この石の上で白装束の美女がさめざめと泣いていたそうだ。

街道に戻ったら、今渡の渡し以前の「土田(どた)の渡し」を求めてもう少し先まで行ってみることに。

 15分ほど歩くとバス停横に「土田一里塚跡碑」(左)が建てられている。ここは、今渡の渡しが出来る前の「土田の渡し」へ至る古中山道で、この先に廃宿となった土田宿があった。

 地元の人に土田の渡しのことを尋ねると、「藤原定家」という思わぬ言葉が。さっそく一里塚跡のすぐ先、弘法大師堂横の道を入ることに。

 東山道時代から旅人の喉を潤してきた「桜井の泉」(右)が今も滾々と清水を湧き出している。
 散れば浮き 散らねば底に影見えて なお面白し 桜井の泉  藤原定家

渡し場跡を求めてもう少し先まで歩いてみたのだが。

 土田の渡しは江戸時代前期の事、しかも何回か場所が変わっているようで、地元の人でも詳しく分からない。あきらめて、翌日、対岸から「土田の渡し跡付近」を眺めてみたのが、左写真である。


 太田宿へ行くためには「太田橋」(右)を渡らなければならないので、30分近く掛けて橋の袂へ。 ここに「今渡の渡し場跡碑」(右)が新設されている。

以前は狭い車道を恐る恐る渡った太田橋であるが、今は立派な歩道専用橋が出来たので安心して対岸へ渡ることができる。




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