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第49宿御嶽宿みたけじゅく
 細久手宿から幾つかの峠を越え、平野部に出てもう少し歩くと
御嶽宿である。 蟹薬師で有名な願興寺の門前町として発達し、
中山道制定と同時に宿駅となっている。
 江戸時代までは 「御嶽」 という地名であったが、明治に入って
「御嵩」と変えている。

平成22年1月5日   鬼の首? 関の太郎? 何者だ。

 国道に合流すると、すぐの右側に「和泉式部廟所」(左)がある。甲州道中上諏訪宿にもあったが、こちらは傍らの説明書きに次のように記されているので本物かと思ってしまうが。

 「心の趣くままに東山道をたどる途中、御嶽の辺りで病に侵されてしまう。鬼岩温泉で湯治していたが寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没した」 と。 しかし、いかんせん千年も前の話なので。 

 旧中山道は国道21号を20分ほど歩き、御嵩電気の先を「左へ曲がっていく」(右)。角に道標があるはずだが、見落としたようだ。

 左折して10分ほど歩くと古民家が2棟、ここは「商家竹屋」(左)。江戸時代からの豪商野呂家(分家)の建物で明治10年(1877)ごろ建てられたというが、江戸時代の建築様式をよく残している。

 この辺りは宿場時代の中心街。竹屋の隣が「本陣跡」(右)である。

 本陣を務めたのは野呂家の本家。建物は明治・大正時代に建て替えられてしまったが、立派な門構えは当時の面影を感じることができる。

 本陣の隣に「みたけ館」(左)という郷土資料館があるが、ここは脇本陣跡。 図書館との複合施設であるが、御嵩町の歴史が分かりやすく展示されている。和泉式部伝説の朗読を聞くと、事実であったような。


 今日(1月5日)はまだ松の内。立派な「門松」(右)が飾られていました。子供の頃は町内で当たり前に見られた門松であるが、今は懐かしい風景となってしまった。

 すぐ先の「願興寺」(左)は弘仁6年(815)開創という古刹。蟹薬師と呼ばれて広く親しまれているが次のような伝説が残されている。

 その昔、一条天皇の皇女・行智尼がここに小さな庵を結び仏道修行に励んでいたが、あるとき、池の中から小さな蟹に囲まれて一寸八分の金色に輝く尊像が現れたのだとか。尼はこれを薬師如来の胎内に収め、人々が安寧に暮らせるよう願ったのだそうだ。

 旧中山道はその先の「御嵩駅」(右)前から願興寺に沿って右に曲がり、次の交差点で左に曲がっていく。7〜8分歩いたら常夜灯がある十字路を右に曲がり、国道21号に出たら左へ曲がっていく。

 旧中山道は国道21号の交差点を左に曲がっていくのだが、ちょっと寄り道したいので右へ。


 4〜5分歩いたら左に曲がり「御嵩富士」(左)を見ながら坂道を上っていくと愚渓寺にたどり着く。
 
 山門を入った右奥の「石庭」(右)が素晴らしい。京都竜安寺の石庭のモデルになったという枯山水は一見の価値があり。

 先ほどの交差点まで戻り、その先3〜4分、「鬼の首塚」(左)なる祠が街道際にある。

 祠の中には「関ノ太郎 首塚」「鬼首塚」(右)と刻まれた2本の石塔が鎮座しているが、関ノ太郎と鬼の首?。

 伝説によると
 「鎌倉時代、鬼岩の岩窟に関の太郎とも鬼の太郎とも呼ばれた男がいたが、悪行三昧のし放題。ついに蟹薬師の祭礼の日に討ち取られたのだが、首を京都に送る途中、この地に落ちて動かなくなってしまったためここへ埋めたのだそうだ。

 首塚の隣に建てられtいるのは「正岡子規歌碑」(左)。

 草枕むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす野路の夕立 子規
 正岡子規「かけはしの記」の中の一節。子規が御嶽宿を出て伏見宿へ向かう途中の出来事であった。


 顔戸交差点を右に曲がり数分歩くと「顔戸(ごうど)城址」(右)に行かれる。応仁の乱(1467〜77)の頃、斉藤妙椿なる人物が「顔戸城」を築き、東美濃の守りの拠点としていたそうだ。

顔戸交差点まで戻ったらもう一度寄り道を。交差点を横断し、顔戸橋を渡り、名電広見線を越えていくと「在原行平卿墳」(左下)が見られる。

 美濃の国司に任じられこの地を治めていたと伝えられる在原行平(業平の兄)だが、その徳を偲び、江戸時代の寛保3年(1742)に碑が建立されたのであった。

隣に百人一首(中納言行平歌)の歌碑も。
 立ち分かれ いなばの山の峰に生ふる まつとしきかば 今かへりこむ 

 国道に戻ったら5〜6分歩き交差点を渡って右の細い道に入って行くのだが、入り際に「比衣(ひえ)一里塚跡碑」(右)が建てられている。ここは江戸から96番目(約377km)。注:一里は約3.93km。



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